・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2011/11/15

札幌 豊平館(ほうへいかん)

2011年11月11日(金曜日)快晴

青空広がる中島公園内にある豊平館を訪問しました。



豊平館は、明治13年に建てられた木造洋風建築物です。
札幌を視察された明治天皇をはじめ、大正、昭和の天皇陛下も皇太子時代に
お泊まりになりました。現在、重要文化財。



豊平館は、かつて今の大通公園の東端にありました。
新渡戸稲造博士は、第一高等学校校長在任中、世間からの批判を受けて神経衰弱になり、
札幌で休養中、豊平館に滞在したといわれています。


当時の趣きを残す、内装。


二階では、明治天皇がお泊まりになった部屋を見学できます。
現在、豊平館は、結婚式、披露宴の会場として使われています。

豊平館ホームページは、こちら


中島公園は、木々が色づき、美しい朝でした。



同じく中島公園内には、北海道立文学館もあります。
一階の常設展「北海道の文学」には、北海道ゆかりの文筆家として、
新渡戸稲造博士の展示があるほか、アイヌ文学の展示などもあります。


常設展では、「佐藤忠良と北海道の本」を展覧中。
佐藤忠良は、北海道に生き、今年3月、98歳で亡くなった彫刻家。
本の挿絵も描かれていたとは知りませんでした。

「帽子・夏 1972」
今秋、新制作展(東京・新国立美術館)で展示された作品(会場にて筆者撮影)

北海道立文学館のホームページは、こちら

札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)

街の中央に位置する有名な時計台を再訪しました。
多くの観光客が、時計台を背に記念撮影をしています。


一階は、農学校時代、研究室や講義室として使われました。
いまは、農学校についての展示室になっています。


札幌農学校の初期卒業生の中に、新渡戸稲造博士もいます。


稲造博士の農学校時代の農学ノート(複製)の展示もあります。
美しい英語の筆記体、図など、熱心に勉学に励んだことが偲ばれます。


そして、二階は、体育館、講堂として使われました。





札幌市時計台ホームページは、こちら

札幌 遠友夜学校記念室

秋が深まる晴天の札幌を再訪しました。

2011年11月10日(木曜日)早朝の羽田空港発で新千歳空港へ。
10時に北大植物園にてアポイントメント。
早速、宮部金吾博士(新渡戸稲造と札幌農学校で同期生)記念室へ。
前回の見学で、大変印象的だった宮部先生の農学校時代の英語の筆記ノート、
親友新渡戸稲造博士の死を報じた新聞の切り抜きを貼ったスクラップノート
などを撮影させていただきました。


その後、徒歩で大通公園端にある札幌資料館へ。
移転中で前回訪問できなかった遠友夜学校記念室が、今秋、札幌市資料館内に開室しました。


ここへの訪問を導いてくださったのは、十和田市新渡戸記念館の新渡戸館長さんです。




資料室の中。



ここの資料室は、以前、遠友夜学校の跡地にありましたが、建物取り壊しが決まり、
こちらに移転してきました。
記念室の展示は、以前の展示を忠実に再現しているそうです。


その後、この記念室を運営管理している札幌教育委員会生涯学習部へ。
いろいろお話を伺うことができました。ありがとうございました。

資料館前の大通公園では、降雪に備え、ベンチの撤去作業がおこなわれていました。


札幌市資料館(旧控訴院)ホームページは、こちら
遠友夜学校記念室のページは、こちら

2011/11/05

ニトベ・ハウス 小日向の家

秋晴れの日、新渡戸稲造博士夫妻が住んでいた東京・小日向の家の跡を訪ねました。


小高い丘の上に、閑静な住宅街が広がっています。
南に少し傾斜している一角に新渡戸稲造博士夫妻の旧居跡がひっそりと
残っていました。この石垣と階段は、当時からのものでしょうか。
(この奥の敷地内には、団地か社宅だったような建物が残されています。
閉鎖されていて、中には入れません)



旧居跡にある文京区教育委員会の説明、その内容を全文掲載します。↓

新渡戸稲造旧居跡 小日向2-10-30あたり

新渡戸稲造(1862年〜1933年)は、農学者、教育家、国際人。
南部藩士の子として盛岡で生まれ、幼くして上京した。
明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。
さらに東京帝国大学に学び、またアメリカやドイツに留学して農政経済学や
農学統計学などを学んだ。
明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国。札幌農学校で教えた。
後、京都帝国大学教授を経て、明治39年第一高等学校長となり、学生に深い影響を
与えた。その後、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長となった。
また、地元拓殖大学の学藍(学長)も務めた。
「太平洋の橋」になることを若い時から考え、国際的にも活躍し、わが国の思想や文化を
西洋に、また西洋のそれをわが国に紹介すること努めた。
大正9年に国際連盟事務次長となり、”連盟の良心”といわれた。
昭和2年帰国して、太平洋問題調査会理事長となり、きびしい国際情勢のなか
平和を求めて国際会議に出席してカナダで亡くなった。
ここは、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと
呼ばれた旧居跡である。

文京区教育委員会 昭和59年3月


旧居跡の前は、なだらかに傾斜している坂道です。
カナダで亡くなり、夫人に遺骨を抱かれて帰宅した時、この坂道では、
多くの近所の人たちが、博士を出迎えたそうです。




これは、現在の地図です。↓
左下が、ニトベ・ハウスがあったあたり、右上には、学藍を務めた拓殖大学が
あります。



2011/10/28

『実業之日本』

渋沢史料館では、「渋沢栄一と『実業之日本』」企画展が開催中。
(2011年10月1日〜11月27日 主催:渋沢史料館 協力:株式会社実業之日本社)

『実業之日本』は、明治創業の出版社で、その雑誌には、新渡戸稲造博士も多くの
記事を寄稿し、編集顧問でもありました。



展示資料の中に、『実業之日本』第14巻 第5号の実物があり、自由に閲覧できるように
なっています。
その中で、稲造博士は、「居なくては困る人」という記事を書いています。
英語の「miss」という語について、いろいろな例をあげて説明しています。
missとは、動詞で、日本語にすると、「いなくて淋しい」というような意味です。
I miss you.は、「あなたがいなくて淋しいです」と訳すことができますが、
その文脈において、日本語に適切に訳すことが難しい語でもあります。

この号の巻末に、興味深いページをみつけました。

「名士面会希望投票発表」(『実業之日本』第14巻 第5号 p.71より抜粋)

会って話してみたい名士を三名、読者に投票してもらうという企画で、
その結果発表です。

投票数は、はがきが758通、封書が123通、合計881通。

第一位 大隈重信
第二位 新渡戸稲造
第三位 増田義一(『実業之日本』社長)
第四位 渋沢栄一
(以下省略)

新渡戸稲造博士に投票した人の中には、「私は、三人もの人にお会いしたい
とは思いません。ただ一人、新渡戸博士にだけ、お会いしてみたい」という
コメントを書いた人がありました。

2011/10/27

渋沢栄一氏との関係

太平洋問題調査会でともに尽力した渋沢栄一氏についての資料を閲覧するため、
東京・飛鳥山にある渋沢史料館を訪問しました。




大正9年4月、社団法人国際聯盟協会が日本で創立。
渋沢栄一氏がその会長となったので、当時、スイス・ジュネーブにあった国際聯盟
事務次長であった新渡戸稲造博士と関わることになりました。

世界の平和と親善を目的としたこの協会については、渋沢栄一氏の最も期待する
ところであり、新渡戸博士とつねに情報を交換し、その目的に向かって尽力しました。
(史料館図録「栄一をめぐる有名人の手紙」1984年より抜粋)

渋沢氏の日々の動きについては、当館所蔵の『渋沢栄一伝記資料』に日誌が掲載され、
渋沢氏が頻繁に国際聯盟協会の会合にでかけていたことがわかります。

また、渋沢氏の事業の一つだった青森県三本木渋沢農場の地は、かつて、稲造博士の祖父、
新渡戸傳が開拓したところでした。(いまは現存していません)

渋沢史料館(渋沢栄一記念財団)ホームページ
http://www.shibusawa.or.jp/index.html

2011/10/16

多磨霊園に眠る稲造博士ゆかりの人々

多磨霊園には、新渡戸稲造博士と関係の深い方々も眠っています。
稲造博士のお許しを得て(墓前でお知らせして)、長年の友人であった内村鑑三氏の
お墓にお参りしました。


そのほか、門下であった有島武郎(作家)、南原繁(政治学者、東大総長)、
矢内原忠雄(経済学者、東大総長)などのお墓も、ここ多磨霊園にあります。

稲造博士の命日

1933年(昭和8年)10月15日は、新渡戸稲造博士が、カナダで亡くなった日です。
(日本時間、10月16日)

稲造博士が、万里子(メリー)夫人らと眠る多磨墓地へお参りにでかけました。
10月15日(土)朝の東京は、朝から雲行きがあやしく、雨まじりの風が
ときおり吹き荒れていました。



東京女子大学同窓会などから、たくさんのお花が供えてありました。



お墓の近くには、新渡戸博士の銅像があります。


雨に濡れて、輝いて見えます。なにを思索されているのでしょうか。
昭和12年に許可を得て、新渡戸博士記念事業実行委員会(代表・田島道治)が
建てた記念碑です。
墓地の中を通るバスからも見ることができます。

午前10時、墓地に着くころには、雨が上がりました。

2011/10/04

東京外国語学校


念願の上京を果たした稲造博士(当時は、叔父・太田時敏の養子)は、元南部藩主による
共慣義塾に入学、そして、1875年(明治8年)、東京外国語学校の入学試験に合格しました。
東京外国語学校は、現在の東京外国語大学の前身で、現在の千代田区一ツ橋二丁目に
ありました。

皇居のお堀からもすぐ近く、まだ、12,3歳だった稲造少年は、ここで、どのような日々を
送ったのでしょうか。

この場所は、現在、如水会館(一橋大学)、学術センター、共立大学講堂などに
なっています。
高層ビルが立ち並び、舗装した広い道路には、多くの車が行き交っています。

学術センターの敷地に、碑が立っています。
当時を偲ぶことのできる唯一の目印となっています。


2011/09/09

石の教会 内村鑑三記念室

札幌農学校時代の同級生で親友の内村鑑三記念室と「石の教会」が、
軽井沢の星野温泉近くにあることがわかり、見学に行きました。





建築家ケンドリック・ケロッグによるオーガニック建築(建築が自然の一部になること)

残念ながら、教会の中は撮影することができませんでしたが、
水の流れが優しく響く、落ち着いた空間でした。

内村鑑三が提唱した「無教会」

明治・大正期のキリスト教者、内村鑑三によって初めて語られた言葉です。
教会のすべてを無にするという意味ではありません。
教会とは、
制度が「無」くても、たとえ信仰が「無」くても、
祈りたい人が、
自由に集うことができる場所なのではないか・・・

内村鑑三と軽井沢

内村鑑三がはじめてここ星野を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
島村藤村、北原白秋らが集った「芸術自由教育講習会」の講師として招かれた
ためです。それ以降、毎年逗留し、師の別荘には、学友の新渡戸稲造氏や
小野塚喜平次氏らが訪れ、日曜になると聖書会や子供会を催したといいます。

(記念室冊子より抜粋)

教会の地下には、内村鑑三記念室があります。




今回の取材には、高校時代からの仲良しで軽井沢に詳しい中嶋(旧姓・森本)泉さんが
同行してくれました。ありがとうございました!

軽井沢 石の教会 内村鑑三記念室のホームページは、こちらへ。

新渡戸通りと三度山の別荘

旧軽井沢からすぐのところに、新渡戸家の別荘があった、新渡戸通りがあります。
「新渡戸通り」の説明文
明治時代から軽井沢を愛し、昭和初期に三度山に三階洋風別荘を造った新渡戸稲造は、
軽井沢夏期大学創始者の一人である。新渡戸は、国際連盟事務次長として活躍した。
設置者 軽井沢観光協会 美しい村プロジェクト2006
協力  軽井沢トラスト
「軽井沢夏期大学60周年記念誌」に投稿されている加藤武子氏(稲造博士の孫娘)
の記事によると、ここは、「三度山の別荘」と呼ばれていたようです。
近くで門の修理をしていたおじさんに尋ねてみると、このあたりが「三度山」と
呼ばれている地域だよ、と教えてくれました。
別荘の背後に、小高い山が見えます。
当時のものと思われる門構えと石塀が残っています。
番号1450 別荘地
新渡戸通りと別荘の石塀
敷地内の坂を登ったところに、家が建っていたということですから、
おそらくこの坂道でしょう。
右下から左上に向かって、なだらかな坂になっています。
その坂を上がったところに、家が建っていた跡と思われる平らな地面が
ありました。ここに三階建ての洋館が建っていたものと思われます。
その平面の奥が、新渡戸博士が書斎にしていた別邸「月心亭」があった
ところのはずです。
新渡戸博士が希望して引き入れた小さな川があるはず、とお庭を見渡すと、
ありました!
家の南側に広がる広いお庭を、小さな流れが横切っています。

にぎやかな旧軽井沢の近くでありながら、とても静かなところです。
ここで、新渡戸博士は、チャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh、
アメリカ合衆国の飛行家、1927年、大西洋単独無着陸飛行、1931年、太平洋
横断飛行に成功)ら要人も迎えました。

上記の取材から10年後、2021年6月の跡地の様子は、こちら