・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2014/07/04

佐藤昌介男爵とロータリークラブ

2014年6月18日(水)米山梅吉記念館

ロータリークラブは、国際的な社会奉仕連合団体のメンバークラブの総称。
1905年、アメリカのシカゴで誕生し、日本では、1920年、米山梅吉氏が、
初めてロータリークラブを設立しました。

今回の記念館訪問で、意外なことを発見しました。
それは、新渡戸博士の兄のような存在だった、同郷の佐藤昌介(北大初代総長)が、
ロータリークラブのガバナー(国際ロータリーの管理役員)を務めていたことです。
記念館の2階、ロータリークラブに関する展示室で、
佐藤昌介男爵の写真をみつけた時は、驚きました。

ロータリークラブのメンバーは、企業家や事業家(会社経営者)が中心である
というイメージをもっていたからです。

記念館の展示資料には、
「1936(昭和11)年7月、佐藤昌介(札幌)ガバナーに就任。」
と書かれています。(新渡戸は、1933年に逝去)

札幌農学校第一期生だった佐藤昌介は、アメリカ留学後、母校の教授に就任。
新渡戸博士と共に、日本初の農学博士になり、また、北海道大学(札幌農学校)の
初代総長、日米交換教授(第二代目。初代は新渡戸)を歴任するなど、
一貫してアカデミックな分野で活躍されましたので、ロータリアンで、
しかも、ガバナーまで務めていたとは、意外でした。

米山梅吉記念館の展示室に掲載されている佐藤昌介の写真

後日、学芸員の市川真理様が、関連資料をご提供くださり、
ガバナー就任の経緯などを知ることができました。

以下、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)より、抜粋します。

「札幌RCの誕生由来(p.4)
 札幌のRC(ロータリークラブ)は、東京RCのお世話により誕生。
 札幌では、大正時代から社会俱楽部を設立していて、市内一流の実業家らが、
 会合を随時おこなって、一つは修養にもつくし、一面明るい文化的都市を築くために
 努力もしていた。
 昭和7年12月3日が発会式、初代会長には、前北海道帝国大学総長の
 佐藤昌介男爵が推された。
 一世の徳望を担った佐藤男爵の会長就任は、俱楽部の充実をみて、その後、
 ガバナーともなり、札幌クラブを、日本ならびに世界のRCに強く認識せしめた。

 札幌RCの大きな移りゆき
 第一期時代(昭和7〜昭和11)(p.5)
 初代会長は佐藤男爵、札幌農学校第一期生として卒業生中最初に教授となり、
 さらに校長に就任、札幌農学校を護り育てて東北帝国大学農科大学に昇格
 せしめて学長となり、さらに北海道帝国大学として総合大学へ進展せしめて
 初代総長となって北大の礎石を造った本道の第一人者として厳然たる存在で
 あった。
 札幌RC の会員には会長としての適任者はほかにいくらでもあったのであるが、
 佐藤男爵を重んじ、昭和11年6月まで毎年改選期に再選されて、
 会長を歴任された。

 初代の米山ガバナー(東京3期)についで、・・・
 第5代は、わが佐藤男爵がガバナーに就任されたのである。
 東京、横浜、大阪からガバナーが選出される前例を破ってまだ田舎都市であった
 札幌からガバナーを出すことは破天荒であったが、これにはもとより佐藤男爵の
 ロータリアンとしての人格識見、ガバナーとして好適の人格者として
 認められたことも原因しようが、歴代ガバナーがこれを支持せられ、
 東京外大クラブがこれを支援せられた賜というべく、
 札幌RCの生みの親クラブの東京RCと常に連繋を保っていたことが大きく
 影響したものである。

 昭和10年においては、昭和9年の本道の凶作に対処し1月凶作義捐金を寄附し、
 4月には台湾の震災にお見舞いした。

 昭和11年において特記すべきは5月に佐藤男爵が次期ガバナーに当選したことで、
 ・・・佐藤男爵が渡米することになり、たまたまクロフォード・マカロー氏が
 来札されるのを機としてマカロー氏歓迎と佐藤男爵渡米壮行会を兼ねて
 会を催したことも記憶されるべきこと・・・」
 (注:マカロー氏は、前IR会長)

このほか、この資料からは、札幌RCへの訪問者は、多岐にわたる人々で
あったことがわかります。役人や大学関係者、芸術家などもいらっしゃいます。
また、家族会の開催や、ニコニコ箱、ロータリーソングなど、
いまに続くロータリークラブの恒例行事が、もうすでにこの時からの
伝統であったこともわかります。

新渡戸稲造博士は、札幌を第二の故郷として大切に思っていました。
6歳年上の佐藤昌介男爵は、同じ岩手県の出身で、稲造のアメリカ留学の際も、
先に留学していた佐藤に強く勧められて、ジョンズ・ホプキンズ大学で共に学び
その後、札幌農学校の教授に就任した佐藤のおかげで、稲造は同校の助教として
ドイツに公費留学することができました。
さらに、東京女子大学の初代学長に稲造を推薦した一人は、佐藤といわれています。
公私ともに、稲造のよき先輩、また兄貴分だった佐藤男爵が、稲造の没後、
ロータリークラブと深い関わりがあったのです。

佐藤昌介は、稲造没後6年を経て、1939(昭和14)年、83歳で人生の幕を閉じています。

個人的にも、メンバーの家族として、20年以上前から関わりのある
ロータリークラブについて、また、「米山奨学金」のことなど、初めて学ぶことができ、よい機会になりました。

このたびの米山梅吉記念館訪問につきましては、同館学芸員の市川真理様と
井上靖文学館(長泉町)の松本館長様にお世話になりました。
ありがとうございました。

米山梅吉記念館(静岡県駿東郡長泉町)
米山梅吉記念館のホームページは、こちら