2014/12/30

月刊誌「東京人」

2014年12月
月刊誌「東京人」の巻頭記事寄稿のご依頼をいただき、
新渡戸博士に関連することを少し書きました。
版元の都市出版様の許可をいただきましたので、
表紙と記事のページを掲載いたします。

2015年1月号「東京人」
特集は、「東京駅とまちの100年」



巻頭記事「時空を超えて出会う。」


挿絵の新渡戸博士がかわいらしい・・・
また、プロフィールでこのブログ「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」も
ご紹介いただきました。

編集長の高橋様、副編集長の田中様には大変お世話になりました。
貴重な機会をいただきまして、ありがとうございました。

2014/12/20

番組再放送のお知らせ

以前に番組制作に協力させていただきました、
岩手めんこいテレビ様の二番組の再放送が決まり、
ご案内をいただきましたので、紹介いたします。

スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~


岩手めんこいテレビ 12日(木)午前600

ジュネーヴの星 

石川テレビ(石川県)1222日(月)深夜045
テレビ西日本(福岡県)1224日(水)深夜245
テレビ大分(大分県)1225日(木)午後500
鹿児島テレビ(鹿児島県)1227日(土)深夜135

めんこいテレビ(岩手県)1228日(日)午後445

2014/12/15

特別シンポジウム「第一次世界大戦と現代世界の誕生」

2014年12月12日(金)
午後1時〜5時30分
国際文化会館(東京・六本木)岩崎小彌太記念ホール

特別シンポジウム「第一次世界大戦と現代世界の誕生」
主催:公益財団法人 国際文化会館
   公益財団法人 サントリー文化財団
   公益財団法人 渋沢栄一記念財団
   
新渡戸博士とも関係の深い国際文化会館でおこなわれた、
特別シンポジウムを聴講しました。
2014年は、第一次世界大戦の勃発から百年。
日本から遠いヨーロッパの地で起こった戦争でしたが、
世界全体が大きく揺れ動き、また日本のその後にも大きな影響を
与えました。
1919年、新渡戸博士は、後藤新平伯に誘われ、第一次世界大戦の
後を視察にヨーロッパを訪問しています。
そして、そのまま国際連盟の事務次長に抜擢されることになります。

今回のシンポでは、二人の基調講演に続き、三人の先生による報告、
そして、全員参加のパネルディスカッションと、大変興味深い内容でした。

基調講演1
「第一次世界大戦が今日に与える教訓」
 デイビッド・A・ウェルチ(ウォータルー大学)

基調講演2
「刻印された歴史意識:長い20世紀と第一次世界大戦」
 中西 寛(京都大学)

「第一次世界大戦は日本に何をもたらしたか」
 井上 寿一(学習院大学)

「日本・ドイツと第一次世界大戦におけるアジア太平洋」
 岩間 陽子(政策研究大学院大学)

「第一次世界大戦は不可避だったか 東アジアの将来への教訓」
 細谷 雄一(慶應義塾大学)

総括 五百旗頭 真(熊本県立大学)

それぞれの視点からの第一次世界大戦の分析、そして、今日までの
影響や教訓まで、とても勉強になる内容でした。

上記の中、学習院大学の井上寿一学長のご講演で、
主に、新渡戸博士がジュネーブで活躍した第一次世界大戦後の
国際政治と日本、そして、新渡戸博士が設立に関わった世界で初めての
国際平和組織「国際連盟(現在の国際連合)」についてのお話が
ありました。(井上先生のレジュメから抜粋)

【第一次世界大戦は日本になにをもたらしたのか】

ヨーロッパで起こった「欧州動乱」は日本に波及、日本の体制を変革した。
この戦争の後、日本の軍事費はピーク時から半減し、国際連盟の原加盟国・
常任理事国となり、「平和とデモクラシー」の時代が到来する。

I パリ講和会議
A 講和会議の諸問題
  旧ドイツ権益/国際連盟/人種平等条項
  (日本は「個別利益の確保」「普遍的な価値の受容」の均衡保持に努めた)
B 4人の「国際会議屋」
  石井菊次郎(国際連盟日本代表)/安達峰一郎(常設国際司法裁判所所長) 
  佐藤尚武(国際連盟帝国事務局長)/杉村陽太郎(国際連盟事務次長)
  (筆者注:杉村は、新渡戸の後任)
C 国際協調の精神
  少数民族問題/常設国際司法裁判所/軍縮

1920年代の日本の国際協調外交は、うまく機能していたが、海外で活躍した
「国際会議屋」たちは、国内に政治的な基盤がなかった。

II 政党政治
A 大正デモクラシー
B 東アジアの脱植民地化要求
C 国際労働機関(ILO)と労働者保護の社会政策
  (社会政策の立案をとおして、官僚と政党が結びつきながら台頭)

III 成金経済と大衆消費社会
A 大衆消費社会の光と影
B 反動不況から長期経済停滞へ

IV 新しい国の〈かたち〉
  皇太子訪欧(1921年3月〜9月)
  新しい時代の新しい皇太子像(背広姿、立憲君主)

おわりに
A 国際協調外交の限界
B 二大政党制の問題
C 大衆消費社会

以上。

新渡戸稲造博士がその設立に関わり、事務次長として尽力した、
国際連盟。
新渡戸博士は、在任中に一時帰国して、日本国内で平和主義と
国際連盟の精神の普及のため、数多くの講演をおこなったが、
難しかった。日本では、第一次世界大戦の戦争認識は浅く、
共有認識されなかったことが、後の大きな問題として残った。

共通の認識基盤を持ち損ねた日本

///

五百旗頭先生は、「第一次世界大戦後の講和会議のまずさ」を指摘。
敗戦国ドイツに厳しすぎたことが、ヨーロッパの新しい出発を妨げ、
ヒットラー台頭を招いてしまったと解説。

私は、第二次世界大戦後のサンフランシスコ平和会議で、
スリランカのジャヤワルデナ大統領(当時は蔵相)が、
敗戦国日本に対し、寛容を示すスピーチをされたこと、
その後の日本が平和に復興できたことに思いを馳せました。

最後に、五百旗頭先生の「有利な立場の側が自制し、相手に自制を
強いることが、平和につながる」というコメントが印象的でした。

1914年のヨーロッパと2014年現在のアジア。
「相手の状況を考え、追いつめない」など、多くの教訓が
現在に活かせることを実感できたように思います。

2014/11/19

札幌遠友夜学校創立120周年記念 作文・論文コンクール

2014年は、新渡戸稲造博士とメアリー夫人が創始した、
札幌遠友夜学校の創立120周年。

遠友夜学校は、多くの人々が、その運営に尽力した学費無料の学校で、
勉学の機会に恵まれない子どもから大人までがここに学びました。

今回の記念事業では、「一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を
考える会」が、広く作文・論文を募集しています。

後援:北海道教育委員会、札幌市、札幌市教育委員会
助成:伊藤組100年記念基金

締切は、2015年3月10日(消印有効)です。

詳細は、こちら

2014/11/10

第6回武士道講読会講演会

2014年11月7日(金)18時〜
学士会館(東京・神保町)

第6回武士道講読会講演会
鈴木範久先生講演会「内村鑑三研究60年」

昨年に続き、今年も学士会館での武士道講読会の講演会に
出席させていただきました。

今回の講演者は、内村鑑三研究の第一人者でいらっしゃる、
鈴木範久先生(立教大学名誉教授)です。
鈴木先生は、NHK Eテレ「内村鑑三」にもご出演され、
同番組は、録画して何回か視聴させていただきましたので、
この日、直接お話を伺える機会を大変楽しみに伺いました。

内村鑑三は、新渡戸稲造と幼少の頃からの友人で、東京から共に
札幌農学校(現在の北海道大学)に入学、終生の友人でした。

鈴木先生のご講演は、長年の内村研究のお話、内村全集のこと、
内村の思想、新渡戸と内村の信仰の比較など、興味深いお話でした。
特に、よく語られている新渡戸と内村の信仰の違いについて、
鈴木先生は、「最近、大きな違いではないのではと考え始めている」
とおっしゃっていたのが印象的でした。

活発な質疑応答の後、懇親会が続きました。
今回も、新渡戸稲造博士と深いご縁のある、
北海道大学と東京女子大学の両学の同窓生の方々が
親しく交流されていた様子が感動的でした。

ご挨拶は、山田純子様(東京女子大学同窓会会長)と
大山綱夫様(北星学園理事長)。
乾杯は、松谷有希雄様(国立保健医療科学院院長)。

その後、東京女子大学の現役の学生さんたちに、武士道会から
本の贈呈式もおこなわれました。
北海道大学の卒業生で、東京女子大学名誉教授の鳥山英雄先生から
図書が贈られました。
まさに両学の架け橋にふさわしい鳥山先生による贈呈式でした。

スピーチでは

田中美保子先生(東京女子大学准教授)から、
「北海道帝国大学が初めて女子学生を受け入れた際、その10名のうち
 5名が東京女子大学出身の学生だった」というエピソード。

堀田国元様(財団法人 機能水研究振興財団理事長)は、
「知られざる新渡戸稲造人脈:ディスカバー 岡見京」のご研究の
発表がありました。
岡見京 医師は、新渡戸博士の友人 岡見千吉郎の妻で、
海外で医学を学んで女医になった日本で最初の女医。
また新たな新渡戸人脈を知ることになりました。
興味深いお話と資料をご提供いただきました堀田様に感謝申し上げます。

三上節子様(新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会)は、
札幌からのご参加で、札幌で計画中の新渡戸稲造記念館の建設や
作文・論文コンクールのご紹介がありました。
詳細は、新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会のホームページへ。

司会は、武士道講読会の桜庭慎吾様でした。

今回も多くの方々にお声をかけていただき、ありがとうございました。
北海道大学武士道講読会の皆様に心より御礼を申し上げます。


2014/10/28

第16回 後藤新平・新渡戸稲造記念 拓殖大学 高校生・留学生作文コンクール

今年も「第16回 後藤新平・新渡戸稲造記念 
拓殖大学 高校生・留学生作文コンクール」がおこなわれ、
その授賞式にお招きいただきました。

2014年10月26日(日)
拓殖大学

久しぶりに訪れた拓殖大学の文京キャンパスは、新校舎の建設も
ずいぶん進み、来春の完成がぐっと近づいた感じがします。
いつものように、読書中の桂太郎初代学長さん(像)にごあいさつして
会場に向かいました。

今回、全国の高等学校、日本語学校205校から、最多の2627通の応募があり、
後藤新平賞(高校生の部 最優秀賞)、新渡戸稲造賞(留学生の部 最優秀賞)、
高校生、留学生の読売新聞社賞など各受賞者の生徒さんや保護者様、
そして、主催の拓殖大学の学長さんをはじめ、
ご選考にご尽力された方々、学校関係者や後援の方々などが
一同にお集りになりました。

昨年同様、受賞者のみなさんのスピーチ、拓殖大学様の海外提携校で
おこなわれた日本語弁論大会優勝者によるスピーチが披露され、
その素晴らしさに驚嘆。

今回、懇親会の会場で、優秀賞に一人に選ばれた、藤本ゆかりさん母娘と
お話できましたことも嬉しい出来事でした。
藤本さんは、「武士道の強さ」という題の受賞作品の中で、
日本の宗教に着目していました。

受賞者のみなさまの今後の進路に幸多いことを祈りつつ会場を後にしました。

このような事業を長年継続されていることに敬意を表し、
学びと感動の多い授賞式にお招きいただきました、
拓殖大学様に心より感謝を申し上げます。

主催:拓殖大学、拓殖大学後援会
後援:読売新聞東京本社、国際開発ジャーナル社、(株)スクールパートナーズ、
   全国国際教育研究協議会、(財)日本国際協力センター、
   十和田市新渡戸記念館、花巻新渡戸記念館、奥州市立後藤新平記念館、
   (財)新渡戸基金、(株)藤原書店

拓殖大学のホームページは、こちら
作文コンクールについては、こちら
昨年の授賞式については、こちら

2014/10/14

東京医療生活協同組合 中野総合病院を訪問

2014年10月9日(木曜日)
東京医療生活協同組合 中野総合病院を訪問し、
池澤康郎 理事長様、入江徹也 副院長様にお目にかかりました。



中野総合病院(東京都中野区)は、

「新渡戸博士が、東京医療利用組合の初代組合長として設立に尽力し、
1932(昭和7)年に認可された、日本で初めての組合病院です。
当時は、まだ医療制度が不十分で、医療費は驚くほど高額、
病気の治療を受けられる人は限られていました。
稲造たちが提案した協同組合の病院は、多くの人々がお金を出し合って設立し、
治療を受ける人の負担をできるだけ少なくしました。(中略)
その後は、全国各地で医療組合の活動がさかんになり、
多くの人々が、安心して医療を受けられるようになりました。
これは、現在の保険医療の制度につながっていきました。」
(『新渡戸稲造ものがたり』p.194〜より抜粋)

現在も、地域の医療に大きく貢献している総合病院です。
池澤理事長と入江副院長は、この病院の設立精神をいま一度確認し、
今後の病院経営と改革に挑んでいくと、その意気込みを語ってくださいました。

病院訪問に先立ち、入江副院長様が、下記のようなメールをくださり、
感激してしまいました。
ご本人の許可を得て、その一部を紹介させていただきます。

(入江先生からのお便り)

御著書から多くを学ばせて頂きました。
児玉源太郎、後藤新平との出会い、藤沼庄平による東京医療利用組合の認可等、
大変勉強になりました

お会いした時にもお話ししましたが、
最後のページの”読書のみなさんへ”と最後の段落の
この世に生まれた大きな目的は、人のために尽くすことにある。
自分の名誉や利益のためではない。自分が生まれた時からこの世を去るまで、
まわりの人々が少しでもよくなれば、それで生まれた甲斐があるというものである」
という新渡戸稲造博士のメッセージに感激した次第です。

今日も病院の若い事務職員に
”武士道を読もうよ。それと新渡戸稲造物語は読んだ方が良い”
話したところでした。

私は昨年8月に副院長になり、初めて病院の歴史に向き合うことになりました。
それまでは、日常臨床にのみ専念し、
病院の存在意義に目を向けてはいなかったと思います。
当院の設立に新渡戸博士が関わっていたことは薄々は知っていたのですが、
今の立場になり初めて意識しました。
まず、武士道を読み、圧倒されて、それから順天堂の樋野興夫先生と
同じ道を辿っているところです。
内村鑑三、矢内原忠雄、を読み、今は南原繁を調べ始めようと
しているところです。

現在医療の現場は非常に厳しい状況です。
大学病院やセンター病院は世界に誇るレベルを目指しているのですが、
それ以外は、将来、療養病院や、
急性期患者を診てもよい地域の病院”(主体は療養病院)だけになるのではという状況です。
大学病院の対象にならない”普通の”病気になった人が、
高いレベルの医療を受けられなくなってしまう可能性があります。

今こそ、新渡戸博士が創立した、営利を目的としない、貧しい人でも診療を受けられる、
東京医療生活協同組合(東京医療利用組合)が頑張らねばならないと
決意を新たにしているところです。

御著書に出会い本当に感謝しております。

(入江先生からのお便りは、ここまで)

また、池澤理事長は、「病跡学と新渡戸稲造博士」についての興味深いお話も

してくださいました。

「病跡学(Pathography)」とは、突出した人物の生涯や業績を、
精神医学や心理学で分析/研究する学問で、
ゲーテなども有名な事例としてよく語られるようです。
興味津々で聞き入りました。これから詳しく調べてみたいと思っています。

最後に、病院内の新渡戸稲造初代組合長の紹介プレートなどをご案内くださいました。






お忙しい中、ありがとうございました。
入江 副院長様、池澤 理事長様に、あらためて御礼を申し上げます。





中野総合病院のホームページは、こちら



2014/09/24

新渡戸・南原と現代の教養

2014年9月23日(火・秋分の日)学士会館(東京都千代田区)
新渡戸・南原賞委員会主催シンポジウム
「新渡戸・南原と現代の教養」

主催:新渡戸・南原賞委員会
後援:秋山記念生命科学振興財団、東京大学出版会、南原繁研究会
   新渡戸基金、藤原書店
協賛:赤澤記念財団、教文館、拓殖大学、東京女子大学、新渡戸文化学園、
   広島女学院大学

13:00 開会 総合司会 東京大学出版会 竹中英俊
   開会あいさつ   新渡戸・南原委員会代表 草原 克豪

講演第一部
1 センモンセンスとコンモンセンス 新渡戸稲造の教育観
  (一財)英語教育協議会理事長・拓殖大学名誉教授 草原 克豪

2 新渡戸稲造と砂本貞吉 日本のキリスト教女子教育を支えた男たち
   広島女学院大学学長 湊 晶子

講演第二部
3 南原繁の今日的意義 平和・教育・宗教・現実的理想主義
   南原繁研究会幹事 山口 周三

4 南原繁のリーダーシップに学ぶ 時代を動かすリーダーの胆力
   順天堂大学教授 樋野 興夫

質疑応答

閉会のあいさつ 国立保健医療科学院院長 松谷 有希雄





2014/08/27

「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」


この夏、久しぶりに軽井沢を訪れました。
現在の天皇皇后両陛下も、たびたび訪問されている、
軽井沢町立植物園や軽井沢草花館(両陛下とご親交があった故 石川功一氏の私設美術館)
を訪ねました。
植物園では、皇居より下賜されたキスゲが軽やかな花を咲かせていました。





軽井沢は、新渡戸博士にとっても大切な地であり、別荘地跡近くには、
「新渡戸通り」が現在もあり、また、新渡戸博士が後藤新平伯らとともに、
一般の人々の生涯教育のために創設した「軽井沢夏期学校」は、
現在も存続しています。
ブログでの関連記事は、こちらへ。

ちょうど時期を同じくして、文藝春秋誌で、両陛下と軽井沢についての
記事が掲載になりましたので、一部紹介します。

文藝春秋 2014年9月特別号
特別読物「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」
奥野修司 著

以下、同誌 p.115、116より抜粋

「象徴天皇」という言葉を読み解いていくと、GHQに押し付けられたのではなく、
国際的リベラリストで昭和天皇の信頼が篤く、クエーカー(キリスト教の
一派で絶対的平和主義で知られる)でもあった新渡戸稲造にたどり着く。

現憲法に大きな影響を与えたマッカーサーの秘書官ボナ・フェラーズは
新渡戸と同じクエーカーであり、当然新渡戸の本は読んだいたはずである。
ちなみに、天皇の人格形成に影響を与えたといわれるバイニングも
クエーカーである。
(筆者注:ボナ・フェラーズについては、こちらを。)

新渡戸は軽井沢に別荘を構え、いまも新渡戸通りにその名を残す。

新しく定められた象徴天皇を支えたのは、戦後、宮内庁長官になった
田島道治であり、侍従長になった三谷隆信だが、実は二人とも
新渡戸稲造の門下生である。
田島は、新渡戸家の近くに別荘を持っていて、皇居と同じように、
戦時中は軽井沢に疎開していた。
前出の前田多門とは親交があった。
(筆者注:新渡戸博士と前田家との関わりについては、こちらを。

戦後の皇室を支えた人物には、前田多門の他に安倍能成(学習院院長)、
田中耕太郎(最高裁判官)の名がしばしば登場するが、
大正七年(一九一八)、新渡戸が後藤新平と軽井沢夏期大学を開設したとき、
その運営にあたったのが、前田多門と鶴見祐輔らであった。

・・・こうして見ると、戦後の皇室には新渡戸人脈とクエーカー人脈が
深く張り巡らされ、軽井沢がひそかな舞台となっていたことがわかる。

・・・両陛下のリベラルな発想は、こうした人脈と無縁ではないだろう。
平成六年六月、ホワイトハウスで行われた歓迎式典で天皇が、
「新渡戸稲造博士は、自分の若き日の夢を『太平洋の橋』になることとして
 海を渡り、貴国の地に参りました」とわざわざ述べられたことからも
新渡戸の影響がうかがえる。

・・・五反田にある正田邸が解体されることが決まった平成十四年に、
皇后はこんな歌を詠まれた。

  かの町の野にもとめ見し夕すげの
  月の色して咲きゐたりしが
  (筆者注:この御歌の歌碑については、こちら。)

皇后が少女時代に過ごした軽井沢の別荘周辺には、ユウスゲが咲き乱れて

いたのだろうか。・・・ご実家である正田邸がなくなり、ユウスゲの花が
咲く軽井沢をあらためて思い出されたのだろう。

軽井沢で、植物園園長の佐藤邦雄から「開発がすすみ、あまり見られなく

なりました」と聞くと、皇居で育てたユウスゲから種を採取して、六年間、
毎年、軽井沢に届けた。

以下、略。



2014/08/25

山梨平和ミュージアム 石橋湛山記念館

2014年8月23日(土)

山梨県の「山梨平和ミュージアム 石橋湛山記念館」を訪問しました。



石橋湛山(いしばし たんざん)(1884年〜1973年)は、
平和・民権・自由主義を貫いた言論人であり、
また、一時、内閣総理大臣を務めた政治家でもあります。
石橋湛山は、東京で生まれ、生後まもなく父の転居にともない山梨に移り、
以後、上京する19歳まで、幼少期から青年期を山梨で過ごしました。

成長期の湛山に大きな影響を与えた人物の一人が、
大島正健(おおしま まさたけ)(1859年〜1938年)先生。
甲府中学(現在の甲府一高)の校長で、新渡戸稲造博士の札幌農学校時代の学友、
生涯の友の一人です。著書に『クラーク博士とその弟子たち』(教文館)など。
大島正健は、クラーク博士から直接教えを受けた第一期生、新渡戸は第二期生。

新渡戸の生涯の友、石橋湛山の恩師、大島正健


石橋湛山は、大島校長について、
「大島校長に会うことにより、クラーク博士の話を聞き、
 なるほど真の教師とはかくあるものかと感動した」
と回想しています。
(展示シートNo.4 「石橋湛山の生涯と思想」『湛山回想』参照)

石橋湛山の揮毫「Boys, be ambitious!」(甲府一高所蔵)

また、余談になりますが、新渡戸博士は、講演のため、甲府を訪れた際、
宝石(山梨の名産品の一つ)をあれこれ買い求め、お金がなくなり、友人の
大島校長に助けを求め、メアリー夫人にも「もう宝石はたくさんです!」と
あきれられたというエピソードが残っています。

2014/08/16

テレビ番組の紹介

『ジュネーヴの星~大友啓史が迫る新渡戸稲造の精神~』
 2014年8月23日(土)12:00~12:55
 BS フジ
 今年は日本とスイスの国交樹立150周年。
 両国の交流の歴史において一際輝きを放つ人物が岩手県盛岡市出身の偉人・新渡戸稲造。
 1920年代に国際連盟事務次長として国際平和の実現に向けて奔走し
 「ジュネーヴの星」と称えられた。
 新渡戸の活躍から80年あまり。
 映画「るろうに剣心」の大友啓史監督がスイス・ジュネーヴに降り立った。
 大友監督も盛岡市出身で、同郷の新渡戸に影響を受け
 「武士道」をバイブルに作品をつくってきたという。
 新渡戸の心の軌跡を追いかけ、
 日本をこよなく愛した画家バルテュスの妻でユネスコ平和のアーティスト、
 節子・クロソフスカ・ド・ローラや、
 旧新渡戸邸のあるフランク・ミュラー本社などを訪ねた。

2014/07/05

新渡戸国際塾 「武士道」と日本人

2014年6月28日(土)国際文化会館(東京都港区)

第7期 新渡戸国際塾 公開講演
「武士道」と日本人
山本 博文 東京大学史料編纂所 教授



1 新渡戸稲造『武士道』の構成

2 新渡戸稲造『武士道』の特徴
  外国人が見た日本人の特質
  大災害と日本人

山本先生は、16世紀以来、日本を訪れた外国人が記録に残した
日本人の特質についての記述を紹介。
また、2011年の東日本大震災に対処した日本人の忍耐力などには、
海外から賞賛の声があがったが、
安政東海大地震の際にも、同様に日本人の気質に触れた記録があったことも
紹介されました。

〈山本先生のレジュメより〉

「日本人と名誉心」
・新渡戸稲造氏の『武士道』で、日本人の美徳とされたものは、
 名誉心と忍耐心
・新渡戸氏は、これを「武士道」の徳が全国民に及んだもの、と考えた
・しかし、日本に初めて来たヨーロッパ人フランシスコ・ザビエル以来、
 日本人の名誉心と忍耐心は、日本人の国民的気質と認識する者が多い。
・新渡戸氏の『武士道』は江戸時代の武士の姿を説くものではなく、
 氏が理想とした日本人像だったのではないか。

〈山本先生のレジュメ 終わり〉


(「士農工商」それぞれの役割を果たすこと。
  インドのカースト制のような身分の上下をあらわすものではない。)
(島国でもある日本には、古代からの一体感があったのではないか。
 → 一国の中で、恥ずべき行動はできない。)


会場の国際文化会館(IHJ)は、新渡戸博士とのご縁も深い場所です。
詳しくは、同館の「歴史」ページ、こちらへ。
国際文化会館のホームページは、こちら



「丸山眞男先生 生誕100周年 シンポジウム」東京女子大学

2014年6月27日(金)東京女子大学 丸山眞男記念比較思想研究センター

丸山眞男 生誕100周年 シンポジウム
現代世界の丸山眞男をどう読むか

新渡戸稲造博士が初代学長を務めた東京女子大学(東京都杉並区)に、
かつて近隣に住まわれた丸山眞男先生の蔵書が寄贈され、同大学には、
丸山眞男記念比較思想研究センターがあります。

このたび、同センター主催のシンポジウムが開催されました。




文部科学省「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」
20世紀日本における知識人と教養
ー丸山眞男文庫デジタルアーカイブの構築と活用ー

シンポジウム詳細については、こちら

丸山眞男先生は、南原繁博士(東京帝国大学法学部教授、のちに総長)の教え子、
南原繁は、新渡戸博士が旧制第一高等学校の校長だった時の生徒で、新渡戸校長から
大きな影響を受けています。
丸山眞男先生は、いわば、新渡戸博士の孫弟子のような存在といえるかもしれません。

小野学長による開会のご挨拶に続き、苅部直(かるべただし)先生の基調講演が
ありました。
苅部先生(東京大学法学部教授。『丸山眞男ーーリベラリスト』でサントリー賞)の
お話は大変わかりやすく、また、内容は、南原先生、新渡戸先生の思想に通じるものも
感じ取れるように思いました。

政治のための教養ーー丸山眞男百歳 苅部 直(かるべ・ただし)

今年、2014年は、第一次世界大戦の開戦(1914年)から100年。

1 出発点としての1945年
  (第二次世界大戦が終結した1945年が日本におけるデモクラシーの出発点)

戦後まもなく、三島(静岡県)に庶民大学三島教室が開校(三嶋大社)。
丸山眞男先生は講師を務めた。生徒は、農民や商人など、一般の人々。
ここでの経験が、のちの丸山眞男先生の学問に大きな影響を与えることになる。

〈苅部先生のレジュメから転載 ↓〉

「デモクラシーと人間性」
(『庶民大学通信』1946.4 『丸山眞男集』第16巻 岩波書店)

「どんなに意見や利害がちがっていてもよく話し合えばお互いの立場が了解され、
 円滑な共同生活が出来るという考え方は、人間が自分を反省する能力があることが
 そもそもの立て前になっているわけです。
 この自己反省の能力が則ちわれわれの理性であり、
 自由主義や民主主義はこうした人間理性に対する信頼を基盤とした主張です。
 私が人間性に対する楽観主義といったのはこの意味です。
 従って、それは決して人間が現実のままで完全であるとか、
 人間の性質のなかには悪がないとかいう意味ではありません。」

「民主主義は自由主義の主張を政治的・社会的にひろげていったものです。
 歴史的に言っても、封建主義に対して自由主義の主張がまず現われ、
 やがてそのなかから民主主義が成長していったのです。」

〈苅部先生のレジュメから転載 終わり〉
〈以下は、聴講メモ〉

2 「政治化」と情報化社会

現代社会では、理性をもつ人間の存在が難しくなっている。
マスメディアの発達により、多くの情報が入ってきて、自分の頭で考え判断する
ことを難しくし、さらに、感情を刺激して人々の意識を集中させることによって、
現状を追認するという結果を起こす。
(例:人々が、サッカーのワールドカップに熱中している間に、
   国会では、重要な法案が進んでいく。)

つまり、社会をリアルに捉え、判断し、政治参加するのは難しい。
では、どうしたらよいのか。(境界に住むことの意味)
→内側にいるのはしかたがない。外からの声に耳をかたむける。

3 「政治的教養」と「遊び」

南原 繁(1889年〜1974年)「政治的教養」
これからの大学は、政治的教養の教育が大事。
新制大学化に尽力。
「一般教養科目」general education ←1940年代のアメリカでの教育革命を参考
よき市民(good citizen)になること、が基盤
戦後の日本の大学教育の出発点

〈聴講メモ 終わり〉

苅部先生のレジュメの最後に、安井てつ学長の「就任の辞」が引用されていました。

「collegeには、professionalの性質を有つものと、Liberalな性質をもつものがあります。
 ・・・ある種の教育は直接生活に必要なるものを授くるのではなく、
 人間生活を理解するに足るべき根本知識を与えて、特別の仕事に従事する基礎を
 造ることを目的とするものであります。
 即ち職業教育も基礎または背景を造るものであって、
 甲(プロフェッショナル)は、直ちに教育の結果を予想し、
 乙(リベラル)は、最善たる結果を将来に収めんがために其の基礎となるべきものを
 重大視するのであります。
 甲は、教育の近路を通り、乙は迂回するのであります。」
(安井てつ学長「就任の辞」1924.6 『学友会雑誌』5号 1926.3 掲載)

〈引用 終わり〉

1918年建学の東京女子大学は、リベラルエデュケーションのための大学。
リベラル=自由人の学問=精神の自由人
    =特定の職業、目的、利益のためではない。→政治のための教養

今回のシンポジウム会場は、安井てつホール。
安井先生は、学監として、新渡戸学長とともに、東京女子大学の初期の教育に尽力され、
のちに第二代学長も歴任されました。

東京女子大学 安井てつホール
この日は、丸山眞男文庫(東京女子大学図書館内)を見学させていただきました。






また、学生ホールにある購買部では、伝記『新渡戸稲造ものがたり』も紹介/販売して
いただいています。ありがとうございます。


2014/07/04

クラーク精神とロータリー

昭和11年10月7日の札幌RCの例会では、札幌訪問中の平生文部大臣が
次のように挨拶をしています。

引き続き、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)から引用します。

「・・・私はこのたび北海道大学に参り、色々創立当初よりの事情を見聞した
 のでありますが、実に感激に堪えないものが多かった。
 殊にウイリアム・スミス・クラークがわずか8ヵ月の間にその基礎を作ったと
 いうことは驚くべきことであるが、そのクラークは英国から移住した
 ピューリタンの血を受けた立派な人格者で『人を造る』という点に非常な
 力点を置いたことは吾らの学ばねばならんことであります。

 大学の50年沿革史で拝見したことであるが、時の黒田清隆氏は、
 『文化の進歩を図ることは、人を造ることである。その成果によって
 国が栄えもすれば衰えもするものである』といわれているが、
 宣なるかなと思う次第であります。
 新聞を編集する1人の学生が私の許に来り、『北大は自然科学だけであって
 人文科学がないから精神文化について欠けるところがあるのではないか』と
 尋ねました。
 そこで私は答えてそれはあれば好いが、而して人文科学がないために精神と
 いうことは当たらない。クラーク先生の如きは科学者であったが、
 当時如何に多くの人物を生んだことであるか。

 私はロータリーの精神が正しく徹底して会員がそれぞれ身を以て
 社会に奉仕すれば決して国が衰えるような心配はないと考えます。
 希くばService above Selfの精神を以て尽瘁(注:じんすい=自分の苦労を
 顧みることなく力を尽くすこと)して頂きたい。
 今や日本は思想的にも非常時であるが、ロータリアンがこれが打開に当って
 一層の責任のあることを自覚しなければならぬと思います。

 本日は突然出まして所感を述べさせて頂きうれしく思います。」

平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう)1866年〜1945年
日本の実業家、教育者(甲南学園創立者)、政治家(文部大臣、貴族院議員)
1935年、ブラジルのコメンダトール勲章を受章。灘購買組合(日本初の生協)の
設立や、大阪ロータリークラブの設立にも尽力した。


佐藤昌介男爵とロータリークラブ

2014年6月18日(水)米山梅吉記念館

ロータリークラブは、国際的な社会奉仕連合団体のメンバークラブの総称。
1905年、アメリカのシカゴで誕生し、日本では、1920年、米山梅吉氏が、
初めてロータリークラブを設立しました。

今回の記念館訪問で、意外なことを発見しました。
それは、新渡戸博士の兄のような存在だった、同郷の佐藤昌介(北大初代総長)が、
ロータリークラブのガバナー(国際ロータリーの管理役員)を務めていたことです。
記念館の2階、ロータリークラブに関する展示室で、
佐藤昌介男爵の写真をみつけた時は、驚きました。

ロータリークラブのメンバーは、企業家や事業家(会社経営者)が中心である
というイメージをもっていたからです。

記念館の展示資料には、
「1936(昭和11)年7月、佐藤昌介(札幌)ガバナーに就任。」
と書かれています。(新渡戸は、1933年に逝去)

札幌農学校第一期生だった佐藤昌介は、アメリカ留学後、母校の教授に就任。
新渡戸博士と共に、日本初の農学博士になり、また、北海道大学(札幌農学校)の
初代総長、日米交換教授(第二代目。初代は新渡戸)を歴任するなど、
一貫してアカデミックな分野で活躍されましたので、ロータリアンで、
しかも、ガバナーまで務めていたとは、意外でした。

米山梅吉記念館の展示室に掲載されている佐藤昌介の写真

後日、学芸員の市川真理様が、関連資料をご提供くださり、
ガバナー就任の経緯などを知ることができました。

以下、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)より、抜粋します。

「札幌RCの誕生由来(p.4)
 札幌のRC(ロータリークラブ)は、東京RCのお世話により誕生。
 札幌では、大正時代から社会俱楽部を設立していて、市内一流の実業家らが、
 会合を随時おこなって、一つは修養にもつくし、一面明るい文化的都市を築くために
 努力もしていた。
 昭和7年12月3日が発会式、初代会長には、前北海道帝国大学総長の
 佐藤昌介男爵が推された。
 一世の徳望を担った佐藤男爵の会長就任は、俱楽部の充実をみて、その後、
 ガバナーともなり、札幌クラブを、日本ならびに世界のRCに強く認識せしめた。

 札幌RCの大きな移りゆき
 第一期時代(昭和7〜昭和11)(p.5)
 初代会長は佐藤男爵、札幌農学校第一期生として卒業生中最初に教授となり、
 さらに校長に就任、札幌農学校を護り育てて東北帝国大学農科大学に昇格
 せしめて学長となり、さらに北海道帝国大学として総合大学へ進展せしめて
 初代総長となって北大の礎石を造った本道の第一人者として厳然たる存在で
 あった。
 札幌RC の会員には会長としての適任者はほかにいくらでもあったのであるが、
 佐藤男爵を重んじ、昭和11年6月まで毎年改選期に再選されて、
 会長を歴任された。

 初代の米山ガバナー(東京3期)についで、・・・
 第5代は、わが佐藤男爵がガバナーに就任されたのである。
 東京、横浜、大阪からガバナーが選出される前例を破ってまだ田舎都市であった
 札幌からガバナーを出すことは破天荒であったが、これにはもとより佐藤男爵の
 ロータリアンとしての人格識見、ガバナーとして好適の人格者として
 認められたことも原因しようが、歴代ガバナーがこれを支持せられ、
 東京外大クラブがこれを支援せられた賜というべく、
 札幌RCの生みの親クラブの東京RCと常に連繋を保っていたことが大きく
 影響したものである。

 昭和10年においては、昭和9年の本道の凶作に対処し1月凶作義捐金を寄附し、
 4月には台湾の震災にお見舞いした。

 昭和11年において特記すべきは5月に佐藤男爵が次期ガバナーに当選したことで、
 ・・・佐藤男爵が渡米することになり、たまたまクロフォード・マカロー氏が
 来札されるのを機としてマカロー氏歓迎と佐藤男爵渡米壮行会を兼ねて
 会を催したことも記憶されるべきこと・・・」
 (注:マカロー氏は、前IR会長)

このほか、この資料からは、札幌RCへの訪問者は、多岐にわたる人々で
あったことがわかります。役人や大学関係者、芸術家などもいらっしゃいます。
また、家族会の開催や、ニコニコ箱、ロータリーソングなど、
いまに続くロータリークラブの恒例行事が、もうすでにこの時からの
伝統であったこともわかります。

新渡戸稲造博士は、札幌を第二の故郷として大切に思っていました。
6歳年上の佐藤昌介男爵は、同じ岩手県の出身で、稲造のアメリカ留学の際も、
先に留学していた佐藤に強く勧められて、ジョンズ・ホプキンズ大学で共に学び
その後、札幌農学校の教授に就任した佐藤のおかげで、稲造は同校の助教として
ドイツに公費留学することができました。
さらに、東京女子大学の初代学長に稲造を推薦した一人は、佐藤といわれています。
公私ともに、稲造のよき先輩、また兄貴分だった佐藤男爵が、稲造の没後、
ロータリークラブと深い関わりがあったのです。

佐藤昌介は、稲造没後6年を経て、1939(昭和14)年、83歳で人生の幕を閉じています。

個人的にも、メンバーの家族として、20年以上前から関わりのある
ロータリークラブについて、また、「米山奨学金」のことなど、初めて学ぶことができ、よい機会になりました。

このたびの米山梅吉記念館訪問につきましては、同館学芸員の市川真理様と
井上靖文学館(長泉町)の松本館長様にお世話になりました。
ありがとうございました。

米山梅吉記念館(静岡県駿東郡長泉町)
米山梅吉記念館のホームページは、こちら

2014/06/23

米山梅吉と新渡戸稲造 共通の恩師

2014年6月18日(水)

静岡県の長泉町、米山梅吉記念館を訪問しました。
今回は、新渡戸博士関連の足跡を訪ねる目的ではありませんでしたが、
思いがけず、新渡戸博士との接点(?)を発見することができましたので、
記録しておきたいと思います。

米山梅吉(1868年〜1946年)は、銀行家で、
緑岡小学校(現在の青山学院初等部)の創立者。
また、米国で知ったロータリークラブを日本で初めて創設しました。
1862年生まれの新渡戸博士とほぼ同じ時代を生きました。

二人の共通の恩師は、アメリカ人宣教師のメリマン・コルバート・ハリスです。

新渡戸博士は、札幌農学校第二期生として在校中の1878(明治11)年6月2日、
友人の宮部金吾、内村鑑三と共に、ハリス宣教師から洗礼を受けて、
キリスト教徒になっています。(『新渡戸稲造ものがたり』p.46)

また、帰国を前に蔵書を処分中のハリス宣教師を訪ねた際、生涯の愛読書となる
トーマス・カーライル著『サーター・リザータス(衣服哲学)』に出会っています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.53)

1884(明治17)年のアメリカ留学では、まず、ハリス宣教師の夫人の家を頼って、
ペンシルヴァニア州ミードヴィルに向かい、ハリスの母校アレゲニー大学に
一時入学しています。

一方、米山梅吉氏は、アメリカ留学中(1887年から約8年間)に、
日本からアメリカに一時帰国中のハリス宣教師にお世話になったと、
記念室の資料に書かれています。


米山梅吉記念館 展示資料より
米山梅吉記念館 2階 展示室


米山梅吉記念館 資料室


米山梅吉 蔵書の一部 『澁澤栄一自叙伝』など

資料室に寄贈されている米山梅吉氏の蔵書を見せていただきました。
(残念ながら、新渡戸博士の著書はみつかりませんでした。)

学芸員の市川真理様が、米山文庫(現在は「こども図書館」として、
地域の子どもたちに開放されている旧館)やお墓にご案内くださいました。
お忙しい中、ありがとうございました。





米山梅吉記念館のホームページは、こちら

沼津の牛臥山(うしぶせやま)と沼津御用邸記念公園

2014年6月17日(火)沼津

沼津は、新渡戸博士が、札幌農学校教授時代、多忙を極めて病気になり、
転地療養した場所の一つです。

1898(明治31)年 36歳
1月13日、静岡県の沼津に移転する(5月末まで三島館に滞在。・・・)

と、『新渡戸稲造事典』(教文館 2013年)p.424の年表にあります。

三島館とは、沼津御用邸のすぐ近く、牛臥山(うしぶせやま)にあった、
明治21年開業の高級旅館で、御用邸を訪れた政府高官がよく利用していたようです。
(沼津市観光WEBより)

現在の牛臥山を御用邸から望む
新渡戸博士は、この牛臥に滞在した約4ヵ月の間に、北海道庁技師や札幌農学校教授を
離職し、その後、伊香保や軽井沢を経て、渡米。『武士道』の執筆にとりかかることに
なります。

新渡戸博士に転地療養を勧めたのは、ドイツ人医師ベルツ先生です。
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849年〜1913年)博士は、「お雇い外国人」の一人で、
実に29年間も日本に滞在し、日本の医学の発展に尽くしました。
ベルツ博士は、当時の宮内省侍医も務め、皇太子時代の大正天皇をはじめ、
皇族方の健康管理に力を注ぎました。
ここ沼津の御用邸の設置を進言した一人でもあります。

正門(ベルツ博士の縁でドイツ・ゾーリンゲンで特注)

今回、初めて沼津の御用邸跡(記念公園)を見学しました。
ここは、明治、大正、昭和と、長期にわたり、皇室の御用邸として使われました。
(昭和44年12月に廃止)

西附属邸は、もともと明治天皇の皇孫殿下(のちの昭和天皇や秩父宮殿下)のために
建てられ、のちに本邸として使用された建物で、現在、内部を見学できます。



西附属邸 入口








昭和天皇 学習院初等科時代の自転車(複製)
昭和天皇の教育係を任されていたのが、乃木希典(のぎまれすけ)学習院院長。
1907(明治40)年1月、乃木院長は、当時、新渡戸博士が校長だった旧制一高に
来校。その後、乃木は新渡戸の自宅を訪れたり、
新渡戸校長が学習院で講演したりするなど、交流がありました。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.128より)

西附属邸 外観
1926(大正15)年9月12日、ジュネーブの国際連盟事務次長だった新渡戸博士は、
訪欧中の秩父宮殿下を迎え、事務局前で写真におさまっています。
また、新渡戸博士は、昭和天皇に、数回お目にかかり、ご進講もされています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.173に掲載)

沼津御用邸記念公園のホームページは、こちら

2014/06/15

テレビ番組「知られざる親日国第六弾・フィンランド」

テレビ東京「未来世紀 ジパング」で、新渡戸博士の活躍について紹介されるようです。
新渡戸基金の藤井様よりお知らせをいただきました。

2014年6月16日(月)22時〜
テレビ東京「未来世紀 ジパング」
知られざる親日国第六弾・フィンランド

以下は、番組ホームページより ↓

大好評"知られざる親日国シリーズ"第6弾はフィンランド。
実はフィンランドは日本から一番近いヨーロッパ、そこは意外な親日国だった。
公園で行われていたのは何と"桜まつり"。
桜を愛でながら、和太鼓に剣術、パラパラまで日本が沸騰していた。
その裏に日本との知られざる接点があった。
新渡戸稲造、旧五千円札の肖像でなじみ深いあの人物がフィンランド人に感謝されていた。
いったい100年前に何があったのか?


フィンランドに平和もたらした日本人

なぜフィンランドが親日なのか?
それは100年以上前の出来事に関わりがあるという。
フィンランドの歴史に名を刻む日本人がいた。
新渡戸稲造、そう旧五千円札の肖像に使われた人物だ。
当時、国際連盟の事務次長だった新渡戸は、
フィンランドとスウェーデンの間で起こっていたオーランド諸島の領有権争いを、
後々まで“新渡戸裁定”と呼ばれるようになった画期的な方法で解決したのだ。
その解決法とは、なんと「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、
言葉や文化風習はスウェーデン式」という意外なものだった。
おかげでオーランド諸島はいまや平和モデルの島となり、
領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになった。
住民はこう言う。
「新渡戸さんをとても尊敬しているの。だって、彼がこの島を平和にしてくれたんだから」

番組ホームページは、こちら

2014/06/12

『武士道』の翻訳者 飯島正久様を訪ねて

2014年6月1日(日)八ヶ岳南麓にて

飯島正久様のお宅を訪問して、お話を伺いました。
飯島様は、1921(大正10)年のお生まれ。
長年、キリスト教の伝道者として活動されていらっしゃいました。
1975(昭和50)年、八ヶ岳南麓大泉町に転居され、週末に、
横浜の港キリスト教会(単立)に通われていましたが、現在では、大泉町で
聖書研究と著作活動に専念されています。

飯島様は、『武士道』(新渡戸稲造・著)を日本語に翻訳され、
教会の会報誌「家庭の聖書月刊誌・牧歌」に連載(1990年3月号〜1992年6月号)。
その内容を、キリスト教関係者以外の一般読者にもわかりやすいよう手を入れて
一冊の本としてまとめて、出版されました。
(月刊「牧歌」の発行は、500回を数え、400〜500人の読者がいらしたそうです)

『武士道 【日本人の魂】』
新渡戸稲造・著 飯島正久・訳/解説
築地書館 1998年10月1日



このたび、ご縁をいただき、飯島様のお嫁さんにあたる飯島恵美子様のご厚意で、
訪問の機会に恵まれました。

飯島様は、北海道の帯広在住時、弁護士だった父親の勧めで、札幌に移り、
遠友夜学校(新渡戸稲造夫妻が創立)で、およそ1年半ほど学ばれたそうです。

キリスト教の伝道者になった理由は、
慶応大学経済学部卒業後、商社丸紅に就職が決まっていたそうですが、
太平洋戦争の学徒出陣で、多くの学友を失い、
(フィリピンへの輸送船が撃沈され、268名中、たまたま帰省許可が出ていた
 自分ともう一人の2名のみが難を逃れた)
とても普通に会社勤めをする気持ちになれなかったからです。

飯島正久 様


飯島様は、内村鑑三門下の山本泰次郎氏を恩師とされ、尊敬していらっしゃいました。
また、ご自身の伯母様から、新渡戸博士直筆サイン入りの英語の『武士道』を
贈られています。

以下、飯島様の本の「訳者まえがき」の冒頭を引用します。
「私の手元に百七十ページ余りの小さな英語の本がある。一九一五年(大正四年)に
 日本で発行された古い本だか、私にとっては、大切な蔵書の一つである。
 著者は新渡戸稲造といい、題名は、BUSHIDO(武士道)、なお副題として
 THE SOUL OF JAPAN(日本の魂)とある。この本の扉には、新渡戸稲造の
 雄渾な英文のサインがあり、一九九〇年一月二日にこの世を去った私の伯母、
 飯島さと(旧姓上野)にあてて、「from her school uncle  一九一六年 東京」とある。
 新渡戸稲造にかわいがっていただいた若き日の伯母が愛蔵し、後にその伯母から
 直接私に贈られたものである。」
 (『武士道 【日本人の魂】』p.1より)

飯島様の伯母さと様は、津田塾大学を卒業され、のちには、同校の教師もされていた
そうです。「from her school uncle」という新渡戸博士の表現に、津田塾と博士の関係が
よく表れています。

「アンクル・ニトベ(Uncle Nitobe)女子英学塾(津田塾大学)
 一九〇〇(明治三十三)年、稲造がアメリカで『武士道』を出版した年の夏、
 津田梅子は、東京に女子英学塾(津田塾大学)を設立しました。
 もともと女子教育に深い関心があった稲造は、アナ・C・ハーツホーンたちと
 ともに女子英学塾の理事になりました。稲造は、女子英学塾の学生のために、
 武士道や日米関係などについての講演を長年にわたりおこないました。
 分厚い眼鏡の奥で、やさしくいたずらっぽくほほえむ稲造を、学生たちは、
 親しみをこめて「Uncle Nitobe(新渡戸おじさん)」と呼びました。
 (『新渡戸稲造ものがたり』p.113より)


直筆サイン入りのご著書をいただいていることからは、伯母様が、新渡戸博士に
大変かわいがられていらしたと想像できます。

飯島様の『武士道 【日本人の魂】』は、翻訳のみならず、随所に飯島様の
解説が入り、とても理解しやすい内容になっています。
また、飯島様は、ご出版まもなく、新渡戸博士のお孫様(加藤武子様と思われます)
にお目にかかる機会があり、
「一番(原文に)忠実に訳していただいて」と喜んでいただいた、
と話されていました。

このたび、飯島正久様と恵美子様には、貴重なお話を伺うことができ、
後ろ髪を引かれる思いで、お宅を後にしました。
晴天の八ヶ岳が美しく、青空の青色、新緑の緑がまぶしく輝いていました。

飯島様、ご紹介いただきました山本様ご夫妻に感謝申し上げます。

左から 飯島恵美子様 飯島正久様 筆者


2014/06/09

坂本家(坂本龍馬の本家)と北海道

2014年5月31日(土)日野春アルプ美術館

週末に訪れた「日野春アルプ美術館」で、思いがけず、北海道開拓に関する話を
聞かせていただきました。

鈴木館長様が長年かけて収集された山岳書籍や雑誌、山岳絵画などを展示している
私設美術館です。
今回、訪問した際は、臨時休館日でしたが、館長さんのご厚意で見学させていただき、
また興味深いお話をたくさん伺うことができました。




山小屋風の素敵な建物の一階に、山岳画家「坂本直行」の絵画を飾ったコーナーが
あります。お花の絵は、北海道の帯広にある六花亭の包装紙のモチーフになっていて
見覚えがあります。





坂本直行(1906年〜1982年)は、坂本龍馬の長兄の子孫にあたり、坂本家第8代目当主。
(長兄とは、NHK『龍馬伝』にも登場していた権平兄さん)
坂本龍馬は、北海道(蝦夷地)開拓を考えていたと伝えられていますが、その後、
高知の坂本家が、北海道に転居し開拓に関わっていたとは、館長さんの話で初めて
知りました。また、坂本直行氏は、北海道大学農学実科で学んでいます。

新渡戸博士は、札幌を「魂のふるさと」と考え、大切に思っていらっしゃいました。
十代の多感な時を過ごし(札幌農学校=いまの北大)、生涯の友人たちに出会い、
のちには教師として戻り、妻メアリーと新婚生活を始め、我が子が眠る地でした。

坂本直行氏と新渡戸博士の接点があったとしたら、新渡戸博士の最後の札幌訪問の
時かもしれません。

1931(昭和6)年、亡くなる二年前に、博士は二十二年ぶりに札幌を訪問しました。
「北海道帝国大学(母校の札幌農学校)では、有名な国際人となった稲造の講演を
 学生たちが心待ちにしていて、中央講堂は早くから大勢の学生たちであふれました。」
 『新渡戸稲造ものがたり』p.197より



八ヶ岳南麓の地で、思いがけず、北海道の話を伺うことができました。
ありがとうございました。