2014/08/27

「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」


この夏、久しぶりに軽井沢を訪れました。
現在の天皇皇后両陛下も、たびたび訪問されている、
軽井沢町立植物園や軽井沢草花館(両陛下とご親交があった故 石川功一氏の私設美術館)
を訪ねました。
植物園では、皇居より下賜されたキスゲが軽やかな花を咲かせていました。





軽井沢は、新渡戸博士にとっても大切な地であり、別荘地跡近くには、
「新渡戸通り」が現在もあり、また、新渡戸博士が後藤新平伯らとともに、
一般の人々の生涯教育のために創設した「軽井沢夏期学校」は、
現在も存続しています。
ブログでの関連記事は、こちらへ。

ちょうど時期を同じくして、文藝春秋誌で、両陛下と軽井沢についての
記事が掲載になりましたので、一部紹介します。

文藝春秋 2014年9月特別号
特別読物「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」
奥野修司 著

以下、同誌 p.115、116より抜粋

「象徴天皇」という言葉を読み解いていくと、GHQに押し付けられたのではなく、
国際的リベラリストで昭和天皇の信頼が篤く、クエーカー(キリスト教の
一派で絶対的平和主義で知られる)でもあった新渡戸稲造にたどり着く。

現憲法に大きな影響を与えたマッカーサーの秘書官ボナ・フェラーズは
新渡戸と同じクエーカーであり、当然新渡戸の本は読んだいたはずである。
ちなみに、天皇の人格形成に影響を与えたといわれるバイニングも
クエーカーである。
(筆者注:ボナ・フェラーズについては、こちらを。)

新渡戸は軽井沢に別荘を構え、いまも新渡戸通りにその名を残す。

新しく定められた象徴天皇を支えたのは、戦後、宮内庁長官になった
田島道治であり、侍従長になった三谷隆信だが、実は二人とも
新渡戸稲造の門下生である。
田島は、新渡戸家の近くに別荘を持っていて、皇居と同じように、
戦時中は軽井沢に疎開していた。
前出の前田多門とは親交があった。
(筆者注:新渡戸博士と前田家との関わりについては、こちらを。

戦後の皇室を支えた人物には、前田多門の他に安倍能成(学習院院長)、
田中耕太郎(最高裁判官)の名がしばしば登場するが、
大正七年(一九一八)、新渡戸が後藤新平と軽井沢夏期大学を開設したとき、
その運営にあたったのが、前田多門と鶴見祐輔らであった。

・・・こうして見ると、戦後の皇室には新渡戸人脈とクエーカー人脈が
深く張り巡らされ、軽井沢がひそかな舞台となっていたことがわかる。

・・・両陛下のリベラルな発想は、こうした人脈と無縁ではないだろう。
平成六年六月、ホワイトハウスで行われた歓迎式典で天皇が、
「新渡戸稲造博士は、自分の若き日の夢を『太平洋の橋』になることとして
 海を渡り、貴国の地に参りました」とわざわざ述べられたことからも
新渡戸の影響がうかがえる。

・・・五反田にある正田邸が解体されることが決まった平成十四年に、
皇后はこんな歌を詠まれた。

  かの町の野にもとめ見し夕すげの
  月の色して咲きゐたりしが
  (筆者注:この御歌の歌碑については、こちら。)

皇后が少女時代に過ごした軽井沢の別荘周辺には、ユウスゲが咲き乱れて

いたのだろうか。・・・ご実家である正田邸がなくなり、ユウスゲの花が
咲く軽井沢をあらためて思い出されたのだろう。

軽井沢で、植物園園長の佐藤邦雄から「開発がすすみ、あまり見られなく

なりました」と聞くと、皇居で育てたユウスゲから種を採取して、六年間、
毎年、軽井沢に届けた。

以下、略。