・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2015/05/09

原敬(はらたかし)同郷の国際派政治家

2015年5月7日 テレビ番組 視聴メモ

NHK「英雄たちの選択」’平民宰相’ 原敬 知られざる素顔

井上寿一(学習院院長)
川田 稔(歴史学者)
三浦瑠麗(国際政治学者)
一ノ瀬俊也(歴史学者)

原敬 はらたかし(1856年〜1921年)盛岡出身
雅号は、「一山」
戊辰戦争で破れ、賊軍出身として上京した原敬は、
外交のプロとして政治家に。

原が影響を受けた二人の人物

1・中江兆民からフランス啓蒙思想を学ぶ
 モンテスキュー、ボルテールなどが教材

明治18年 パリ公使館勤務
読書メモ
『パンセ』『フリードリッヒ2世回想録』『国際法の理論と実践』

2・陸奥宗光との出会い

明治28年、陸奥外相のもと、外務次官に就任。
ところが、陸奥は病死。原は外務省を辞めて、立憲政友会に参加し
政治家の道へ。内務大臣就任。

明治41年、52歳、大臣を辞任して、180日間の世界一周船旅へ。
太平洋横断してアメリカへ、さらにヨーロッパ視察へ
(トランクが盛岡の記念館に残されている)

そこで見た民主主義の国、20世紀初頭のアメリカ。

「将来この国が世界に対し、いかなるものとなるか
 常に注目しておく必要がある。」
 (『原敬日記』明治41年10月8日)

産業や大学を見学し、アメリカの将来の躍進を確信した。

1914(大正3)年、第一次世界大戦 開戦
ヨーロッパ衰退の始まり

1918(大正7)年、第一次世界大戦終結
パリ講和会議で、アメリカ大統領ウィルソンによる国際協調

原は、内閣総理大臣に就任 初の政党内閣の誕生

課題:シベリア出兵問題
山県有朋(やまがたありとも)は派兵拡大を黙認
日本の兵力7万人以上に拡大していた派兵を原は半減へ
「レーニン率いる革命軍といかに対するか」
増兵(派兵継続=国際協調に反する)か、
全面撤兵(財政破綻を回避)か。
いつ、どのように撤退するか。
(軍部は存在理由が危ぶまれ始めた=出兵、しかし、
 なにか取得しないと撤兵できない)
(世論にも配慮が必要。「米騒動」)

原は、アメリカとの関係を重視していた=日本の運命に関わる
アメリカは一方的な撤兵=原もその機会を利用して撤兵を決める
(山県を説得して、政治主導の撤兵へ)
1920(大正9)年9月13日、山県有朋の古希庵(現在は栃木県に移築)
で、山県と会談。原は、イギリスの立憲君主制をめざし、
内閣が軍部をコントロールすることを計画し、山県に同意を求めた。
(大日本憲法では、天皇が陸海軍を直属としている)
=「平民宰相(原)が元老(山県)を動かした」

「軍事についても 政府が政治上全責任を負う方針に改めるべきです」
 (『原敬日記』大正9年9月10日)

・皇太子の外遊実現
原は、「これからの元首は広く世界を知っていなければならない」と
皇太子の外遊を実現させた。
1921(大正10)年9月3日、皇太子(のちの昭和天皇)が外遊から帰国。
各国で王室や元首らにお会いになり、戦後のヨーロッパを視察。
帰国後、「世界平和の切要なるを感じた」と原に述べられた。
若き皇太子に原の理念が刻まれた。

・鉄道網の拡大 経済の発展

1921(大正10)年11月4日夜、東京駅にて平民宰相 原 敬 暗殺 65歳

「原の外交政策は常に融和的だった」(英タイムズ紙 11月5日)
「彼を失ったこと日本国民にとって大きな痛手である」(同)

約10年後、昭和六年、軍の暴走で満州事変が勃発

///視聴メモ 終わり

新渡戸博士は、同郷の政治家、原敬と親交がありました。
原は稲造の養父だった太田時敏と親しく、養父が亡くなった際、
その死亡記事には、友人として原敬の名前が掲載されています。

『新渡戸稲造ものがたり』から、以下を引用します。

  原敬と稲造は、自分たちの故郷である東北地方をどのように
 開発していくべきかについて、意見を交換することがありました。
 原敬、渋沢栄一、益田孝、高橋是清、大橋新太郎たちと共に
 一九一四年の凶作に見舞われた東北地方のために、一九一四
 (大正三)年十一月、東北振興会を開いて、具体的な話し合いを
 おこないました。
  原は、その後、総理大臣に就任しました。原と稲造は、
 民主主義について共通の考えをもっていました。原は、
 政治の舞台で民主政治の基本である政党政治の確立をめざし、
 稲造は、雑誌「実業之日本」などに記事を書いて、自分の考える
 民主主義を人々に広めました。
 『新渡戸稲造ものがたり』
  「原敬とともに 東北の振興と民主主義の普及」p.148-149
 
新渡戸博士は、かつての学友ウィルソン大統領が、
第一次世界大戦後に提案した世界で初めての国際平和機関、
国際連盟の事務次長に就任(スイス ジュネーブ)。
スイス在住中に、原敬暗殺の悲報を聞きました。

「・・・有力な人物がまた倒れた。誰が彼に代わることができよう。
 このところおよそ最も強力な人物であった」
と、その死を深く悲しみました。



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