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2013/11/07

少年よ大志を抱け!クラーク博士と教え子たちの北海道物語

NHK 歴史秘話ヒストリア(2013年10月30日放送)
「少年よ大志を抱け!クラーク博士と教え子たちの北海道物語」

【番組の内容(抜粋)】


クラーク博士は、1926年、マサチューセッツ州の裕福な医師の家に生まれる。
エリート校である、アマースト大学へ進学。その後、26歳で教授に抜擢され、
化学、植物学、動物学を教えた。
1867年(40歳)、マサチューセッツ農科大学を設立して学長に就任。
牛を育て、酪農に力を注ぐ。酪農は、このころ欧米でも最先端の分野だった。

1876年、日本から使者がやってきて「日本で酪農を教えていただきたい」と頼まれる。
当時の日本は戊辰戦争後で、多くの若者が傷つき、復興には、若者を教育することが
必要だった。しかし、学長が2年間留守にすることはできないと反対の声があがる。
クラークは、日本の置かれた状況に同情した。南北戦争で多くの教え子を
失った経験から(戦死者はアメリカ全土で62万人)、ぜひ未来ある若者たちに農業を
教えたいと考えたからである。
クラークは、「私は日本に行く。2年分の仕事を1年で終わらせて戻ってきます」
と宣言。愛する妻子を残し、日本の復興のために、遠く日本へ渡った。

1876(明治9)年、横浜に到着。24人の第一期生が札幌農学校に入学。
クラークは、「将来の日本を支える立派な技術者にしてみせる」と誓った。

当時、札幌農学校の入学生は、元武士の次男や三男。戊辰戦争の敗戦組が
ほとんど。農民と同じ仕事をすることに抵抗を感じていた子どももいた。
中には、連日のように酒を飲んで荒れる生徒もいて、授業もままならなかった。
開校から一ヵ月で5人が退学処分。多くの規則が作られた。

さらに、
アメリカの牧草を育てることに対し、酪農の経験のない農家の賛同を得られない。

クラークは生徒を集めると、大好きなワインを投げ捨て、禁酒を宣言したので、
生徒たちにも酒を禁止した。
クラークは、「Be gentleman!」だけを規則とした。

生徒たちは、「イエスを信ずるものの誓約書」に署名。

クラークの体当たりの熱血指導
野外学習で、めずらしい苔を発見すると、クラークは、自ら四つん這いになり、
「自分の背に乗って、苔を取れ」と主張し、日本人生徒たちを驚かせた。
次第に、教師と生徒という立場を越えて、強い絆で結ばれるようになった。
「教師と生徒との距離が近いこと」がクラークの魅力。

クラークが構想したモデルバーン(現在も北大構内に残る)は、
北海道全域で建設された。

現在の札幌市時計台は、もともと札幌農学校の「演武場」。
1877(明治10)年、クラーク博士の帰国が近づいたころ、西南戦争が始まる。
生徒たちのために、演武場を作り、自ら身を守る術を学ばせたかったのである。
南北戦争で、多くの学生たちを戦場で死なせてしまった後悔があったからだった。

別れの日。生徒たちは父を失うような思いだった。
馬上のクラークは、
「Boys, be ambitious, like this old man」
少年を大志を抱け、この老人(クラーク)のごとく。
と言い残して去っていった。教え子たちに残した最後のメッセージである。
(ここで、藤田先生が登場されていました)

アメリカに帰国後も文通を続け、教え子たちの教師であり続けた。

1885(明治18)年、58歳。体調をくずしていたクラークを新島襄が訪問。
(新島襄は、クラークの最初の日本人学生)
新島は、「先生は日本を深く愛していた」と書き残している。

翌年、クラークは亡くなった。(59歳)
「日本で生徒たちと過ごした日々が、私の人生において最良の時間だった」と
クラークは書き残している。札幌農学校ではその日の授業を取りやめ、
演武場で、教え子たちは、次々にクラークに感謝の言葉を述べた。
生徒たちは、「毎晩先生のところを訪ね、人生のさまざまなことを語った」
などと回想している。

その後、北海道の酪農は大きく発展した。
「少年よ、大志を抱け」のメッセージもいまに続いている。
(終わり)

新渡戸稲造は、札幌農学校第二期生。
クラークの指導は直接受けていませんが、クラークの後継者として来日した
アメリカ人教師たちによって、英語で教育を受けました。
「教師と生徒との距離が近いこと」。新渡戸博士は、これを札幌農学校で経験し、
その後、欧米の留学で実感し、その恩恵を受けたからこそ、自らの教育姿勢と
なっていったのではないでしょうか。





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