2014/06/23

米山梅吉と新渡戸稲造 共通の恩師

2014年6月18日(水)

静岡県の長泉町、米山梅吉記念館を訪問しました。
今回は、新渡戸博士関連の足跡を訪ねる目的ではありませんでしたが、
思いがけず、新渡戸博士との接点(?)を発見することができましたので、
記録しておきたいと思います。

米山梅吉(1868年〜1946年)は、銀行家で、
緑岡小学校(現在の青山学院初等部)の創立者。
また、米国で知ったロータリークラブを日本で初めて創設しました。
1862年生まれの新渡戸博士とほぼ同じ時代を生きました。

二人の共通の恩師は、アメリカ人宣教師のメリマン・コルバート・ハリスです。

新渡戸博士は、札幌農学校第二期生として在校中の1878(明治11)年6月2日、
友人の宮部金吾、内村鑑三と共に、ハリス宣教師から洗礼を受けて、
キリスト教徒になっています。(『新渡戸稲造ものがたり』p.46)

また、帰国を前に蔵書を処分中のハリス宣教師を訪ねた際、生涯の愛読書となる
トーマス・カーライル著『サーター・リザータス(衣服哲学)』に出会っています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.53)

1884(明治17)年のアメリカ留学では、まず、ハリス宣教師の夫人の家を頼って、
ペンシルヴァニア州ミードヴィルに向かい、ハリスの母校アレゲニー大学に
一時入学しています。

一方、米山梅吉氏は、アメリカ留学中(1887年から約8年間)に、
日本からアメリカに一時帰国中のハリス宣教師にお世話になったと、
記念室の資料に書かれています。


米山梅吉記念館 展示資料より
米山梅吉記念館 2階 展示室


米山梅吉記念館 資料室


米山梅吉 蔵書の一部 『澁澤栄一自叙伝』など

資料室に寄贈されている米山梅吉氏の蔵書を見せていただきました。
(残念ながら、新渡戸博士の著書はみつかりませんでした。)

学芸員の市川真理様が、米山文庫(現在は「こども図書館」として、
地域の子どもたちに開放されている旧館)やお墓にご案内くださいました。
お忙しい中、ありがとうございました。





米山梅吉記念館のホームページは、こちら

沼津の牛臥山(うしぶせやま)と沼津御用邸記念公園

2014年6月17日(火)沼津

沼津は、新渡戸博士が、札幌農学校教授時代、多忙を極めて病気になり、
転地療養した場所の一つです。

1898(明治31)年 36歳
1月13日、静岡県の沼津に移転する(5月末まで三島館に滞在。・・・)

と、『新渡戸稲造事典』(教文館 2013年)p.424の年表にあります。

三島館とは、沼津御用邸のすぐ近く、牛臥山(うしぶせやま)にあった、
明治21年開業の高級旅館で、御用邸を訪れた政府高官がよく利用していたようです。
(沼津市観光WEBより)

現在の牛臥山を御用邸から望む
新渡戸博士は、この牛臥に滞在した約4ヵ月の間に、北海道庁技師や札幌農学校教授を
離職し、その後、伊香保や軽井沢を経て、渡米。『武士道』の執筆にとりかかることに
なります。

新渡戸博士に転地療養を勧めたのは、ドイツ人医師ベルツ先生です。
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849年〜1913年)博士は、「お雇い外国人」の一人で、
実に29年間も日本に滞在し、日本の医学の発展に尽くしました。
ベルツ博士は、当時の宮内省侍医も務め、皇太子時代の大正天皇をはじめ、
皇族方の健康管理に力を注ぎました。
ここ沼津の御用邸の設置を進言した一人でもあります。

正門(ベルツ博士の縁でドイツ・ゾーリンゲンで特注)

今回、初めて沼津の御用邸跡(記念公園)を見学しました。
ここは、明治、大正、昭和と、長期にわたり、皇室の御用邸として使われました。
(昭和44年12月に廃止)

西附属邸は、もともと明治天皇の皇孫殿下(のちの昭和天皇や秩父宮殿下)のために
建てられ、のちに本邸として使用された建物で、現在、内部を見学できます。



西附属邸 入口








昭和天皇 学習院初等科時代の自転車(複製)
昭和天皇の教育係を任されていたのが、乃木希典(のぎまれすけ)学習院院長。
1907(明治40)年1月、乃木院長は、当時、新渡戸博士が校長だった旧制一高に
来校。その後、乃木は新渡戸の自宅を訪れたり、
新渡戸校長が学習院で講演したりするなど、交流がありました。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.128より)

西附属邸 外観
1926(大正15)年9月12日、ジュネーブの国際連盟事務次長だった新渡戸博士は、
訪欧中の秩父宮殿下を迎え、事務局前で写真におさまっています。
また、新渡戸博士は、昭和天皇に、数回お目にかかり、ご進講もされています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.173に掲載)

沼津御用邸記念公園のホームページは、こちら

2014/06/15

テレビ番組「知られざる親日国第六弾・フィンランド」

テレビ東京「未来世紀 ジパング」で、新渡戸博士の活躍について紹介されるようです。
新渡戸基金の藤井様よりお知らせをいただきました。

2014年6月16日(月)22時〜
テレビ東京「未来世紀 ジパング」
知られざる親日国第六弾・フィンランド

以下は、番組ホームページより ↓

大好評"知られざる親日国シリーズ"第6弾はフィンランド。
実はフィンランドは日本から一番近いヨーロッパ、そこは意外な親日国だった。
公園で行われていたのは何と"桜まつり"。
桜を愛でながら、和太鼓に剣術、パラパラまで日本が沸騰していた。
その裏に日本との知られざる接点があった。
新渡戸稲造、旧五千円札の肖像でなじみ深いあの人物がフィンランド人に感謝されていた。
いったい100年前に何があったのか?


フィンランドに平和もたらした日本人

なぜフィンランドが親日なのか?
それは100年以上前の出来事に関わりがあるという。
フィンランドの歴史に名を刻む日本人がいた。
新渡戸稲造、そう旧五千円札の肖像に使われた人物だ。
当時、国際連盟の事務次長だった新渡戸は、
フィンランドとスウェーデンの間で起こっていたオーランド諸島の領有権争いを、
後々まで“新渡戸裁定”と呼ばれるようになった画期的な方法で解決したのだ。
その解決法とは、なんと「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、
言葉や文化風習はスウェーデン式」という意外なものだった。
おかげでオーランド諸島はいまや平和モデルの島となり、
領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになった。
住民はこう言う。
「新渡戸さんをとても尊敬しているの。だって、彼がこの島を平和にしてくれたんだから」

番組ホームページは、こちら

2014/06/12

『武士道』の翻訳者 飯島正久様を訪ねて

2014年6月1日(日)八ヶ岳南麓にて

飯島正久様のお宅を訪問して、お話を伺いました。
飯島様は、1921(大正10)年のお生まれ。
長年、キリスト教の伝道者として活動されていらっしゃいました。
1975(昭和50)年、八ヶ岳南麓大泉町に転居され、週末に、
横浜の港キリスト教会(単立)に通われていましたが、現在では、大泉町で
聖書研究と著作活動に専念されています。

飯島様は、『武士道』(新渡戸稲造・著)を日本語に翻訳され、
教会の会報誌「家庭の聖書月刊誌・牧歌」に連載(1990年3月号〜1992年6月号)。
その内容を、キリスト教関係者以外の一般読者にもわかりやすいよう手を入れて
一冊の本としてまとめて、出版されました。
(月刊「牧歌」の発行は、500回を数え、400〜500人の読者がいらしたそうです)

『武士道 【日本人の魂】』
新渡戸稲造・著 飯島正久・訳/解説
築地書館 1998年10月1日



このたび、ご縁をいただき、飯島様のお嫁さんにあたる飯島恵美子様のご厚意で、
訪問の機会に恵まれました。

飯島様は、北海道の帯広在住時、弁護士だった父親の勧めで、札幌に移り、
遠友夜学校(新渡戸稲造夫妻が創立)で、およそ1年半ほど学ばれたそうです。

キリスト教の伝道者になった理由は、
慶応大学経済学部卒業後、商社丸紅に就職が決まっていたそうですが、
太平洋戦争の学徒出陣で、多くの学友を失い、
(フィリピンへの輸送船が撃沈され、268名中、たまたま帰省許可が出ていた
 自分ともう一人の2名のみが難を逃れた)
とても普通に会社勤めをする気持ちになれなかったからです。

飯島正久 様


飯島様は、内村鑑三門下の山本泰次郎氏を恩師とされ、尊敬していらっしゃいました。
また、ご自身の伯母様から、新渡戸博士直筆サイン入りの英語の『武士道』を
贈られています。

以下、飯島様の本の「訳者まえがき」の冒頭を引用します。
「私の手元に百七十ページ余りの小さな英語の本がある。一九一五年(大正四年)に
 日本で発行された古い本だか、私にとっては、大切な蔵書の一つである。
 著者は新渡戸稲造といい、題名は、BUSHIDO(武士道)、なお副題として
 THE SOUL OF JAPAN(日本の魂)とある。この本の扉には、新渡戸稲造の
 雄渾な英文のサインがあり、一九九〇年一月二日にこの世を去った私の伯母、
 飯島さと(旧姓上野)にあてて、「from her school uncle  一九一六年 東京」とある。
 新渡戸稲造にかわいがっていただいた若き日の伯母が愛蔵し、後にその伯母から
 直接私に贈られたものである。」
 (『武士道 【日本人の魂】』p.1より)

飯島様の伯母さと様は、津田塾大学を卒業され、のちには、同校の教師もされていた
そうです。「from her school uncle」という新渡戸博士の表現に、津田塾と博士の関係が
よく表れています。

「アンクル・ニトベ(Uncle Nitobe)女子英学塾(津田塾大学)
 一九〇〇(明治三十三)年、稲造がアメリカで『武士道』を出版した年の夏、
 津田梅子は、東京に女子英学塾(津田塾大学)を設立しました。
 もともと女子教育に深い関心があった稲造は、アナ・C・ハーツホーンたちと
 ともに女子英学塾の理事になりました。稲造は、女子英学塾の学生のために、
 武士道や日米関係などについての講演を長年にわたりおこないました。
 分厚い眼鏡の奥で、やさしくいたずらっぽくほほえむ稲造を、学生たちは、
 親しみをこめて「Uncle Nitobe(新渡戸おじさん)」と呼びました。
 (『新渡戸稲造ものがたり』p.113より)


直筆サイン入りのご著書をいただいていることからは、伯母様が、新渡戸博士に
大変かわいがられていらしたと想像できます。

飯島様の『武士道 【日本人の魂】』は、翻訳のみならず、随所に飯島様の
解説が入り、とても理解しやすい内容になっています。
また、飯島様は、ご出版まもなく、新渡戸博士のお孫様(加藤武子様と思われます)
にお目にかかる機会があり、
「一番(原文に)忠実に訳していただいて」と喜んでいただいた、
と話されていました。

このたび、飯島正久様と恵美子様には、貴重なお話を伺うことができ、
後ろ髪を引かれる思いで、お宅を後にしました。
晴天の八ヶ岳が美しく、青空の青色、新緑の緑がまぶしく輝いていました。

飯島様、ご紹介いただきました山本様ご夫妻に感謝申し上げます。

左から 飯島恵美子様 飯島正久様 筆者


2014/06/09

坂本家(坂本龍馬の本家)と北海道

2014年5月31日(土)日野春アルプ美術館

週末に訪れた「日野春アルプ美術館」で、思いがけず、北海道開拓に関する話を
聞かせていただきました。

鈴木館長様が長年かけて収集された山岳書籍や雑誌、山岳絵画などを展示している
私設美術館です。
今回、訪問した際は、臨時休館日でしたが、館長さんのご厚意で見学させていただき、
また興味深いお話をたくさん伺うことができました。




山小屋風の素敵な建物の一階に、山岳画家「坂本直行」の絵画を飾ったコーナーが
あります。お花の絵は、北海道の帯広にある六花亭の包装紙のモチーフになっていて
見覚えがあります。





坂本直行(1906年〜1982年)は、坂本龍馬の長兄の子孫にあたり、坂本家第8代目当主。
(長兄とは、NHK『龍馬伝』にも登場していた権平兄さん)
坂本龍馬は、北海道(蝦夷地)開拓を考えていたと伝えられていますが、その後、
高知の坂本家が、北海道に転居し開拓に関わっていたとは、館長さんの話で初めて
知りました。また、坂本直行氏は、北海道大学農学実科で学んでいます。

新渡戸博士は、札幌を「魂のふるさと」と考え、大切に思っていらっしゃいました。
十代の多感な時を過ごし(札幌農学校=いまの北大)、生涯の友人たちに出会い、
のちには教師として戻り、妻メアリーと新婚生活を始め、我が子が眠る地でした。

坂本直行氏と新渡戸博士の接点があったとしたら、新渡戸博士の最後の札幌訪問の
時かもしれません。

1931(昭和6)年、亡くなる二年前に、博士は二十二年ぶりに札幌を訪問しました。
「北海道帝国大学(母校の札幌農学校)では、有名な国際人となった稲造の講演を
 学生たちが心待ちにしていて、中央講堂は早くから大勢の学生たちであふれました。」
 『新渡戸稲造ものがたり』p.197より



八ヶ岳南麓の地で、思いがけず、北海道の話を伺うことができました。
ありがとうございました。





2014/06/04

昭憲皇太后 百年祭(東京・明治神宮)

昭憲皇太后(明治の皇后。1849年〜1914年)没後100年の野外展覧会が
明治神宮の参道でおこなわれています。6月30日まで



新渡戸稲造博士は、幕末に生まれました。
明治の時代になって天皇陛下が東北巡幸をされた折に、
十和田(青森県)の新渡戸家を訪問されています。
そのことが、新渡戸博士のその後を決定づける大きな出来事になりました。

「一八七六(明治九)年の六月から七月、天皇陛下(明治天皇)が
 初めて東北と北海道をお巡りになりました。
 その途中、稲造の祖父が開拓事業をおこなった三本木を訪れ、
 広大な水田をご覧になり、大変喜ばれました。
 そして、その功績をほめて、
 『今後も、家族、子孫たちは、その志を継ぎ、ますます農業にはげむように』
 というお言葉をくださいました。
 (中略)
 東京にいた稲造は、母からの手紙で、このことを知りました。
 そして、天皇陛下の訪問が新聞に載っているのを見た時、
 稲造は、自分の家族の歴史と、今後の自分の責任の重さを実感して、
 胸が高鳴りました。」
 『新渡戸稲造ものがたり』p.38-39より

また、新渡戸博士とメアリー夫人が発起人になり、
日本の動物愛護運動の先駆けとなった日本人道会に対し、
動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、当時の皇后陛下から
活動資金の援助を賜っています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.147より抜粋)

昭憲皇太后は、皇后としてさまざまな社会活動をされました。
今回、明治神宮の森の中で、その業績を知る機会に恵まれました。




1912(明治45)年、昭憲皇太后は、世界の人々のために、
十万円(現在の三億五千万円相当)を下賜しました。
戦時中に留まらず、災害や感染症に苦しむ世界中の人々のために、
平時の国際救援活動を奨励するためでした。(展示解説文より抜粋)

「1921(大正10)年、ジュネーブでおこなわれた第十回赤十字国際会議
 昭憲皇太后基金の定款が正式に採択され、基金管理は、赤十字国際委員会
 (ICRC)がおこなうこととなりました。」(展示解説文より)



この採択がおこなわれた1921年は、ちょうど新渡戸稲造博士が、
国際連盟の事務次長として、同地ジュネーブに滞在中でした。
常任理事国だった日本を代表する、世界のリーダーの一人として、
国際機関の仕事に従事していた新渡戸博士にとって、
どんなに感慨深い出来事だったでしょうか。



「赤十字事業を、戦時の救護活動から、幅広い人道的な活動へと広げた
 支援のあり方は、時代を先取りしたものとして、今日、世界的に大きな
 評価を得ています。」(展示解説文より)