2015年12月
札幌の藤田正一先生が、ご著書『札幌遠友夜学校』を
お送りくださいました。
この冊子のご発行については、先ごろ閉室になった遠友夜学校記念室
の再開、そして、遠友夜学校の貴重な資料を国の文化遺産に、
という強い気持ちが込められています。
遠友夜学校記念室(2011年に訪問)については、こちら。
藤田先生は、北海道大学の元副学長/名誉教授でいらっしゃいます。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』執筆のため同大学を訪問した際に
初めてお目にかかりました。
「平成遠友夜学校」の校長先生でもいらっしゃいます。
その後、『日本のオールターナティブ 〜クラークが種を蒔き、北大の
前身、札幌農学校が育んだ清き精神〜』(2013年12月)の出版の
お手伝いをさせていただきました。
同書については、こちら。
学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
2015/12/31
2015/12/30
田中耕太郎「私の履歴書」
2015年の夏、カーライルハウス(ロンドン)での調査で、
新渡戸稲造博士は、ロンドン在住期間に二度カーライルハウスを
訪問して記帳していることがわかりました。
(訪問の記事は、こちら。)
このうちの一回は、当時、新渡戸博士宅に滞在中だった
一高校長時代の教え子、田中耕太郎と並んで署名しています。
田中耕太郎博士は、日経新聞の「私の履歴書」に経歴や一高時代の
思い出、新渡戸校長について書いています。以下、読書メモ/引用。
↓
『私の履歴書 文化人15』日本経済新聞社 昭和59年
田中耕太郎(最高裁長官) p.305〜382
父は、判事、のちに検事。
母は、徳富蘆花の『名婦鑑』を愛読し、
父は、自ら孝経をはじめ、論語や孟子の講義をしてくれた。
儒教以外にもキリスト教にもひきつけられていて、
「人が見ていなくても神が見給う」というようなことを
言っていた。
母は西洋料理を習って知人を手料理でもてなしたり、
婦人の改良服を考案し・・・
父母は田舎での生活改善運動の率先者であった。
明治41年の秋、旧制一高に入学(第一部独法科)。
私は、とくに当時の一高の教育が明治以降の日本教育史上における
もっとも成功した事例としてあげ得ると思う。
・・・一高の特色は学問や芸術を通じ、自らの人格の力でもって
人生の意義を教える一部の教授と、その個人的な指導を受けた生徒に
よって維持されていた。
・・・
私の在校三年間は、ヒューマニストの教育者で愛国者かつ国際主義者の
新渡戸稲造先生の校長としての全盛時代であった。
思想的文化的雰囲気は極端に自由であり、百花らんまんの観を呈していた。
三年生には、岩下壮一、和辻哲郎、九鬼周造・・・といったそうそうたる
人物・・・、田舎出の新入生に目のくらうような未知の輝かしい世界が
出現したのである。
・・・漠然と正しいもの、美しいものを求める気持ちにかられるだけである。
そこに喜びと誇りとがあった。
・・・もっとも根本的な問題は、何になるかではなく、如何に生きるかであった
ことはたしかである。明治的青年の立身出世主義は軽蔑された。生活のための
職業以外に、はるかに崇高な世界があるとこと、人間として身につけておくべき
教養の権威が教えられた。新渡戸先生の三年間の科外講義の題目として
選ばれたファウストや「衣装哲学」や「失楽園」は、当時の私の理解の程度を
はるかに超えるものであった。しかし先生がこれらの愛読書を講読された
その情熱に深い感動を覚えた。
・・・三年の寮生活は、一生涯続き、その後の人生の行路に
大きく影響を及ぼし合った交友関係を作った。
p.319
病気療養中、私は宗教書に親しむようになった。
とくに内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」の中にある
「時計の構造は時計師のみが知っている、人間を造った神のみがこれを
知る」という意味のことばは、私の病気の奇跡的全快と思い合わせて
深い感銘を与えた。これは神の存在のまことにわかりやすい証明のように
思われた。
p.321
(徳富)盧花は私の知るかぎり、二回一高の教壇に立った。第一回は私の
入学の前年、「勝利の悲哀」という演題で全校生の血をわかしたそうである。
私が聞いたのは、卒業の年(明治四十四年)幸徳秋水の大逆事件の直後に
やった「謀反論(むほんろん)」であった。農民の預言者といった風体の
盧花は、ホーンのようなとぎれとぎれの、高い裏声で一昔前の反逆者も
時勢が変われば人々がその徳をたたえることになることを吉田松陰と
井伊掃部頭(いいかもんのかみ=井伊直弼)の例をひいて説き、
死刑に絶対反対を表明し、幸徳などの助命を出張したのであった。
この講演が当時の時勢として問題にならないわけはなかった。
それは新渡戸校長の進退問題にまで発展した。当時の情勢下で校長が
辞職をしないですんだのがむしろ不思議なくらいである。
こういうふうに一高三年間の思い出はつきない。残っているものは
師と友と書に対する感謝の気持ちである。これらは我々にパンを得る
のに役立つものを与えてくれたわけではなかった。しかしほんとうの
人生に必要なものを供給してくれた。実際我々は民法や刑法はもちろん
憲法の条文すらのぞいて見たことはなかった。
p.324
科目の勉強にはずいぶん時間をかけたが、余暇がないわけではなかった。
一高でそだった我々の仲間は法律学だけに没頭できなかった。いわゆる
勉強家と認められていた我々の中には点取り虫になること立身出世に
浮き身をやつすことに対する軽蔑の気持ちがあった。法律の書物以外に
外国語の文学書を耽読したものである。一番われわれが精力を傾注し
勉強時間の半ばくらいを費やしたのは、前に述べたキューゲルゲンの
「一老人の幼時の追憶」の翻訳であった。
これには一高卒業の年の夏休み前から着手した。
・・・我々は新渡戸稲造先生の紹介で森鴎外先生の校閲を依頼に先生の
団子坂上の邸宅にでかけた。鴎外先生は馬上でも読書をされているくらい
多忙だったときいていたから、ずいぶん厚かましい次第である。
p.338
ロンドンはパリ平和会議のあおりを食って宿舎難であった。私は市の西部
ホッランド・パーク六十六番の新渡戸稲造先生のパンションに、
数週間先生の応接間のソファの上で起居させてもらった。そのころ先生の
札幌時代からの親友の宮部金吾博士もそこに滞在していられた。
新渡戸先生は当時ロンドンにあった国際連盟の事務局の事務次長であった。
その間に私は偉大な教育者、国際主義者でかつ愛国者の人格や思想、
教養、日常生活にはじめて身近に接する得難い機会をもった。
先生はスプーンの上げ下ろしにいたるまで、必要なエティケットを
教えられた。我々は毎日のようにストーブをかこみながら夜を更かした。
クエイカーの教会にお伴にたこともあった。一緒に方々にでかけた。
シェイクスピア劇の切符は先生が、安価な音楽会の方は私が買うことに
した。私は先生の慈父の愛につつまれて、ロンドンの生活をはじめた
のである。
エピスコパル教会の牧師の紹介で、私はチェルシーの「カーライルの
家」に遠くない、信者の寡婦の家に室を見つけた。
引用おわりーーーーー(主に新渡戸校長と関わるところを抜粋)
田中氏は、その後、大正十一年(1922年)の初夏に帰国。
さまざまな遍歴を経て、最高裁判所長官を10年、さらに、国連で
国際司法裁判所判事に当選し、オランダのハーグに着任しました。
(昭和49年3月1日 没)
ハーグの国際司法裁判所(平和宮)については、こちら。
新渡戸稲造博士は、ロンドン在住期間に二度カーライルハウスを
訪問して記帳していることがわかりました。
(訪問の記事は、こちら。)
このうちの一回は、当時、新渡戸博士宅に滞在中だった
一高校長時代の教え子、田中耕太郎と並んで署名しています。
田中耕太郎博士は、日経新聞の「私の履歴書」に経歴や一高時代の
思い出、新渡戸校長について書いています。以下、読書メモ/引用。
↓
『私の履歴書 文化人15』日本経済新聞社 昭和59年
田中耕太郎(最高裁長官) p.305〜382
父は、判事、のちに検事。
母は、徳富蘆花の『名婦鑑』を愛読し、
父は、自ら孝経をはじめ、論語や孟子の講義をしてくれた。
儒教以外にもキリスト教にもひきつけられていて、
「人が見ていなくても神が見給う」というようなことを
言っていた。
母は西洋料理を習って知人を手料理でもてなしたり、
婦人の改良服を考案し・・・
父母は田舎での生活改善運動の率先者であった。
明治41年の秋、旧制一高に入学(第一部独法科)。
私は、とくに当時の一高の教育が明治以降の日本教育史上における
もっとも成功した事例としてあげ得ると思う。
・・・一高の特色は学問や芸術を通じ、自らの人格の力でもって
人生の意義を教える一部の教授と、その個人的な指導を受けた生徒に
よって維持されていた。
・・・
私の在校三年間は、ヒューマニストの教育者で愛国者かつ国際主義者の
新渡戸稲造先生の校長としての全盛時代であった。
思想的文化的雰囲気は極端に自由であり、百花らんまんの観を呈していた。
三年生には、岩下壮一、和辻哲郎、九鬼周造・・・といったそうそうたる
人物・・・、田舎出の新入生に目のくらうような未知の輝かしい世界が
出現したのである。
・・・漠然と正しいもの、美しいものを求める気持ちにかられるだけである。
そこに喜びと誇りとがあった。
・・・もっとも根本的な問題は、何になるかではなく、如何に生きるかであった
ことはたしかである。明治的青年の立身出世主義は軽蔑された。生活のための
職業以外に、はるかに崇高な世界があるとこと、人間として身につけておくべき
教養の権威が教えられた。新渡戸先生の三年間の科外講義の題目として
選ばれたファウストや「衣装哲学」や「失楽園」は、当時の私の理解の程度を
はるかに超えるものであった。しかし先生がこれらの愛読書を講読された
その情熱に深い感動を覚えた。
・・・三年の寮生活は、一生涯続き、その後の人生の行路に
大きく影響を及ぼし合った交友関係を作った。
p.319
病気療養中、私は宗教書に親しむようになった。
とくに内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」の中にある
「時計の構造は時計師のみが知っている、人間を造った神のみがこれを
知る」という意味のことばは、私の病気の奇跡的全快と思い合わせて
深い感銘を与えた。これは神の存在のまことにわかりやすい証明のように
思われた。
p.321
(徳富)盧花は私の知るかぎり、二回一高の教壇に立った。第一回は私の
入学の前年、「勝利の悲哀」という演題で全校生の血をわかしたそうである。
私が聞いたのは、卒業の年(明治四十四年)幸徳秋水の大逆事件の直後に
やった「謀反論(むほんろん)」であった。農民の預言者といった風体の
盧花は、ホーンのようなとぎれとぎれの、高い裏声で一昔前の反逆者も
時勢が変われば人々がその徳をたたえることになることを吉田松陰と
井伊掃部頭(いいかもんのかみ=井伊直弼)の例をひいて説き、
死刑に絶対反対を表明し、幸徳などの助命を出張したのであった。
この講演が当時の時勢として問題にならないわけはなかった。
それは新渡戸校長の進退問題にまで発展した。当時の情勢下で校長が
辞職をしないですんだのがむしろ不思議なくらいである。
こういうふうに一高三年間の思い出はつきない。残っているものは
師と友と書に対する感謝の気持ちである。これらは我々にパンを得る
のに役立つものを与えてくれたわけではなかった。しかしほんとうの
人生に必要なものを供給してくれた。実際我々は民法や刑法はもちろん
憲法の条文すらのぞいて見たことはなかった。
p.324
科目の勉強にはずいぶん時間をかけたが、余暇がないわけではなかった。
一高でそだった我々の仲間は法律学だけに没頭できなかった。いわゆる
勉強家と認められていた我々の中には点取り虫になること立身出世に
浮き身をやつすことに対する軽蔑の気持ちがあった。法律の書物以外に
外国語の文学書を耽読したものである。一番われわれが精力を傾注し
勉強時間の半ばくらいを費やしたのは、前に述べたキューゲルゲンの
「一老人の幼時の追憶」の翻訳であった。
これには一高卒業の年の夏休み前から着手した。
・・・我々は新渡戸稲造先生の紹介で森鴎外先生の校閲を依頼に先生の
団子坂上の邸宅にでかけた。鴎外先生は馬上でも読書をされているくらい
多忙だったときいていたから、ずいぶん厚かましい次第である。
p.338
ロンドンはパリ平和会議のあおりを食って宿舎難であった。私は市の西部
ホッランド・パーク六十六番の新渡戸稲造先生のパンションに、
数週間先生の応接間のソファの上で起居させてもらった。そのころ先生の
札幌時代からの親友の宮部金吾博士もそこに滞在していられた。
新渡戸先生は当時ロンドンにあった国際連盟の事務局の事務次長であった。
その間に私は偉大な教育者、国際主義者でかつ愛国者の人格や思想、
教養、日常生活にはじめて身近に接する得難い機会をもった。
先生はスプーンの上げ下ろしにいたるまで、必要なエティケットを
教えられた。我々は毎日のようにストーブをかこみながら夜を更かした。
クエイカーの教会にお伴にたこともあった。一緒に方々にでかけた。
シェイクスピア劇の切符は先生が、安価な音楽会の方は私が買うことに
した。私は先生の慈父の愛につつまれて、ロンドンの生活をはじめた
のである。
エピスコパル教会の牧師の紹介で、私はチェルシーの「カーライルの
家」に遠くない、信者の寡婦の家に室を見つけた。
引用おわりーーーーー(主に新渡戸校長と関わるところを抜粋)
田中氏は、その後、大正十一年(1922年)の初夏に帰国。
さまざまな遍歴を経て、最高裁判所長官を10年、さらに、国連で
国際司法裁判所判事に当選し、オランダのハーグに着任しました。
(昭和49年3月1日 没)
ハーグの国際司法裁判所(平和宮)については、こちら。
NHKラジオ「いま生きる 武士道」
2015年10月〜12月
NHK ラジオ第2放送「こころをよむ」
「いま生きる 武士道 その精神と歴史」
笠谷 和比古
日曜日 午前6:45〜7:25 (再放送 翌日曜日 午後1:20〜2:00)
「武士道」という言葉は、よく見かけることがありますが、
筆者または話者が、なにを差しているのかわかりにくいことが多いと
思います。
私はすぐに新渡戸博士の著書『武士道』を思い浮かべますが、
『葉隠』を考える人、漠然と「日本人に昔から引き継がれている精神」
と捉える人・・・
今回の笠谷先生の講義では、さまざまな角度から「武士道」を考えることが
できました。
また、今日的な意義を示されていて大変勉強になりました。
2016年1月は、NHK Eテレ「100分de名著」に、
再び、内村鑑三の著書が登場です。こちらも楽しみ!
NHK ラジオ第2放送「こころをよむ」
「いま生きる 武士道 その精神と歴史」
笠谷 和比古
日曜日 午前6:45〜7:25 (再放送 翌日曜日 午後1:20〜2:00)
「武士道」という言葉は、よく見かけることがありますが、
筆者または話者が、なにを差しているのかわかりにくいことが多いと
思います。
私はすぐに新渡戸博士の著書『武士道』を思い浮かべますが、
『葉隠』を考える人、漠然と「日本人に昔から引き継がれている精神」
と捉える人・・・
今回の笠谷先生の講義では、さまざまな角度から「武士道」を考えることが
できました。
また、今日的な意義を示されていて大変勉強になりました。
2016年1月は、NHK Eテレ「100分de名著」に、
再び、内村鑑三の著書が登場です。こちらも楽しみ!
武士の娘「杉本鉞子」(すぎもとえつこ)
2015年12月29日 10:00〜11:49
BS1 スペシャル「武士の娘 鉞子とフローレンス
〜奇跡のベストセラーを生んだ日米の絆〜」
以前、ある方から、
「新渡戸稲造や武士道を研究しているのなら、ぜひこの人のことも・・・」
と紹介していただいたのが、杉本鉞子(えつこ)という人物です。
長岡出身の杉本鉞子さん(1873年〜1950年)は、元武士の娘でしたが、
アメリカ在住の日本人と結婚するために、渡米しました。
1925年、英語で「A Daughter of the Samurai(『武士の娘』」を書き、
当時、欧米で注目されました。
新渡戸稲造が、英語で『武士道』を出版(1900年)したちょうど25年後、
新渡戸博士が国際連盟の事務次長としてスイスのジュネーブに滞在して
いたころです。
杉本鉞子さんが、渡米後からずっとお世話になったのが、
新渡戸のアメリカ留学時代の学友(ジョンズホプキンズ大学)で、
アメリカの大統領になったウッドロー・ウイルソンの一族の方々です。
特に、ウィルソン一族のフローレンスさんとは生涯の友になり、
この本『武士の娘』の刊行には、彼女の大きな尽力がありました。
杉本鉞子さんは、コロンビア大学で講師も務めましたが、
日本では、新渡戸博士ご夫妻と深いご縁もある普連土学園でも
教えたそうです。
BS1 スペシャル「武士の娘 鉞子とフローレンス
〜奇跡のベストセラーを生んだ日米の絆〜」
以前、ある方から、
「新渡戸稲造や武士道を研究しているのなら、ぜひこの人のことも・・・」
と紹介していただいたのが、杉本鉞子(えつこ)という人物です。
長岡出身の杉本鉞子さん(1873年〜1950年)は、元武士の娘でしたが、
アメリカ在住の日本人と結婚するために、渡米しました。
1925年、英語で「A Daughter of the Samurai(『武士の娘』」を書き、
当時、欧米で注目されました。
新渡戸稲造が、英語で『武士道』を出版(1900年)したちょうど25年後、
新渡戸博士が国際連盟の事務次長としてスイスのジュネーブに滞在して
いたころです。
杉本鉞子さんが、渡米後からずっとお世話になったのが、
新渡戸のアメリカ留学時代の学友(ジョンズホプキンズ大学)で、
アメリカの大統領になったウッドロー・ウイルソンの一族の方々です。
特に、ウィルソン一族のフローレンスさんとは生涯の友になり、
この本『武士の娘』の刊行には、彼女の大きな尽力がありました。
杉本鉞子さんは、コロンビア大学で講師も務めましたが、
日本では、新渡戸博士ご夫妻と深いご縁もある普連土学園でも
教えたそうです。
2015/12/20
旧制一高の教え子、谷崎潤一郎
2015/12/18
聖路加国際病院と新渡戸稲造博士
2015年12月
聖路加国際病院は、歴史のある都内有数の総合病院です。
104歳の日野原重明先生が、名誉病院長をされていることでも
よく知られています。
新渡戸稲造博士は、この病院の設立にも関わっており、
病院と看護大学の評議員を務めました。
現在も旧館の正面玄関にその足跡を確認することができます。
この写真は、設立当時に建てられた石碑。
12ある穴(釘跡)は、戦時中に「神の栄光」と刻まれた礎石を
憲兵隊によって隠すよう命令され、御影石で覆っていた跡と
説明されています。
新渡戸博士の鎌倉の別荘は、新渡戸の没後、メアリー夫人によって
聖路加看護大学(現在の聖路加国際大学)に売却されています。
鎌倉の別荘跡の訪問については、こちら。
今回、大学史編纂資料室のご厚意で、関連資料を閲覧させて
いただくことができました。
松山事件の後、新渡戸博士がこの病院に入院されていたことなども
確認できました。
この病院のある明石町(東京都中央区)は、かつて外国人居留地
でした。
聖路加国際病院は、歴史のある都内有数の総合病院です。
104歳の日野原重明先生が、名誉病院長をされていることでも
よく知られています。
聖路加病院旧館(現在の聖路加国際大学) |
新渡戸稲造博士は、この病院の設立にも関わっており、
病院と看護大学の評議員を務めました。
現在も旧館の正面玄関にその足跡を確認することができます。
この写真は、設立当時に建てられた石碑。
12ある穴(釘跡)は、戦時中に「神の栄光」と刻まれた礎石を
憲兵隊によって隠すよう命令され、御影石で覆っていた跡と
説明されています。
「この基礎石は、建物(旧館)が、1928年(昭和3年)1月に着工し、
その後、1930年(昭和5年)3月28日に行われた定礎式で披露され、
約67年間、旧館東口玄関に設置されていました。
・・・中略
定礎式には、秩父宮両殿下を始め、各大臣、東京府知事、
警視総監、各国大公使、新渡戸稲造の署名士たち400名が出席
されました。
・・・後略」
定礎式の当日は、内村鑑三が亡くなった日でもありました。
新渡戸博士の鎌倉の別荘は、新渡戸の没後、メアリー夫人によって
聖路加看護大学(現在の聖路加国際大学)に売却されています。
鎌倉の別荘跡の訪問については、こちら。
今回、大学史編纂資料室のご厚意で、関連資料を閲覧させて
いただくことができました。
松山事件の後、新渡戸博士がこの病院に入院されていたことなども
確認できました。
旧館内部 |
旧館内部 |
この病院のある明石町(東京都中央区)は、かつて外国人居留地
でした。
中庭には、設立者トイスラー博士(Dr. Teusler)の旧宅(洋館)も保存されています。
また、同地には、「芥川龍之介生誕の地」と書かれた案内版も。
芥川もまた、新渡戸校長時代の旧制一高の生徒でした。
(このあたりで幼少時代を過ごした谷崎潤一郎については、こちら。)
2015/12/06
狩野亨吉展
2015年12月4日(金曜日)
東京大学駒場博物館にて
「東京大学駒場博物館 秋季特別展
教育者・蒐集家・鑑定人
狩野亨吉(かのうこうきち)生誕150周年記念展」
2015年10月17日〜12月6日
狩野亨吉先生(1865年〜)は、新渡戸稲造校長の前任の
旧制第一高等学校(現 東京大学教養学部)校長でした。
久しぶりに東大駒場博物館に向かいました。
狩野亨吉校長は、同級の親友、澤柳政太郎校長(のちに
成城学園を創立)の後任として、
明治31年(1898年)、一高校長に着任。33歳。
「全寮制」「ろう城主義」「四綱領」「自治」「文武両道」へ。
新渡戸稲造博士が、同校の校長に就任したのは、
アメリカで『武士道』を出版した後。1906年〜1913年。
一高で「ソシアリティー」を教え、新風を吹き込みました。
のちに活躍する多くの人材を育て、影響を与えました。
今回の記念展によって、
狩野校長の幅広い活躍について知ることができました。
会場で放映していた映像「一高130周年記念 ああ向陵よ 向陵よ」
(約40分 2004年 一高同窓会)には貴重な動画が含まれ、
興味深く拝見しました。
以下、映像視聴メモ
一高生徒「選ばれし者の誇りと責任」
「教育」の充実に向けて
明治7年 東京英語学校(前身)
明治10年 予備門
明治27年 第一高等学校
昭和5年 「行軍」「紀念祭」記録フィルム(当時の一高の生活がわかる)
昭和10年 本郷から駒場に移転
9月14日8時半 全職員/生徒が本郷を出発
皇居前遥拝式
警視庁、国会、渋谷を行進/沿道に多くの市民
岩本貞(てい)ドイツ語 総持寺に哲学碑
安藤昌益『自然真営道』
「校友会雑誌」「向陵時報」
東京大学駒場博物館にて
「東京大学駒場博物館 秋季特別展
教育者・蒐集家・鑑定人
狩野亨吉(かのうこうきち)生誕150周年記念展」
2015年10月17日〜12月6日
狩野亨吉先生(1865年〜)は、新渡戸稲造校長の前任の
旧制第一高等学校(現 東京大学教養学部)校長でした。
久しぶりに東大駒場博物館に向かいました。
狩野亨吉校長は、同級の親友、澤柳政太郎校長(のちに
成城学園を創立)の後任として、
明治31年(1898年)、一高校長に着任。33歳。
「全寮制」「ろう城主義」「四綱領」「自治」「文武両道」へ。
新渡戸稲造博士が、同校の校長に就任したのは、
アメリカで『武士道』を出版した後。1906年〜1913年。
一高で「ソシアリティー」を教え、新風を吹き込みました。
のちに活躍する多くの人材を育て、影響を与えました。
今回の記念展によって、
狩野校長の幅広い活躍について知ることができました。
会場で放映していた映像「一高130周年記念 ああ向陵よ 向陵よ」
(約40分 2004年 一高同窓会)には貴重な動画が含まれ、
興味深く拝見しました。
以下、映像視聴メモ
一高生徒「選ばれし者の誇りと責任」
「教育」の充実に向けて
明治7年 東京英語学校(前身)
明治10年 予備門
明治27年 第一高等学校
昭和5年 「行軍」「紀念祭」記録フィルム(当時の一高の生活がわかる)
昭和10年 本郷から駒場に移転
9月14日8時半 全職員/生徒が本郷を出発
皇居前遥拝式
警視庁、国会、渋谷を行進/沿道に多くの市民
岩本貞(てい)ドイツ語 総持寺に哲学碑
安藤昌益『自然真営道』
「校友会雑誌」「向陵時報」