2015/12/30

田中耕太郎「私の履歴書」

2015年の夏、カーライルハウス(ロンドン)での調査で、
新渡戸稲造博士は、ロンドン在住期間に二度カーライルハウスを
訪問して記帳していることがわかりました。
(訪問の記事は、こちら。)

このうちの一回は、当時、新渡戸博士宅に滞在中だった
一高校長時代の教え子、田中耕太郎と並んで署名しています。

田中耕太郎博士は、日経新聞の「私の履歴書」に経歴や一高時代の
思い出、新渡戸校長について書いています。以下、読書メモ/引用。


『私の履歴書 文化人15』日本経済新聞社 昭和59年

田中耕太郎(最高裁長官) p.305〜382

父は、判事、のちに検事。

母は、徳富蘆花の『名婦鑑』を愛読し、
父は、自ら孝経をはじめ、論語や孟子の講義をしてくれた。
儒教以外にもキリスト教にもひきつけられていて、
「人が見ていなくても神が見給う」というようなことを
言っていた。
母は西洋料理を習って知人を手料理でもてなしたり、
婦人の改良服を考案し・・・
父母は田舎での生活改善運動の率先者であった。

明治41年の秋、旧制一高に入学(第一部独法科)。
私は、とくに当時の一高の教育が明治以降の日本教育史上における
もっとも成功した事例としてあげ得ると思う。
・・・一高の特色は学問や芸術を通じ、自らの人格の力でもって
人生の意義を教える一部の教授と、その個人的な指導を受けた生徒に
よって維持されていた。
・・・
私の在校三年間は、ヒューマニストの教育者で愛国者かつ国際主義者の
新渡戸稲造先生の校長としての全盛時代であった。
思想的文化的雰囲気は極端に自由であり、百花らんまんの観を呈していた。
三年生には、岩下壮一、和辻哲郎、九鬼周造・・・といったそうそうたる
人物・・・、田舎出の新入生に目のくらうような未知の輝かしい世界が
出現したのである。
・・・漠然と正しいもの、美しいものを求める気持ちにかられるだけである。
そこに喜びと誇りとがあった。
・・・もっとも根本的な問題は、何になるかではなく、如何に生きるかであった
ことはたしかである。明治的青年の立身出世主義は軽蔑された。生活のための
職業以外に、はるかに崇高な世界があるとこと、人間として身につけておくべき
教養の権威が教えられた。新渡戸先生の三年間の科外講義の題目として
選ばれたファウストや「衣装哲学」や「失楽園」は、当時の私の理解の程度を
はるかに超えるものであった。しかし先生がこれらの愛読書を講読された
その情熱に深い感動を覚えた。
・・・三年の寮生活は、一生涯続き、その後の人生の行路に
大きく影響を及ぼし合った交友関係を作った。

p.319
病気療養中、私は宗教書に親しむようになった。
とくに内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」の中にある
「時計の構造は時計師のみが知っている、人間を造った神のみがこれを
知る」という意味のことばは、私の病気の奇跡的全快と思い合わせて
深い感銘を与えた。これは神の存在のまことにわかりやすい証明のように
思われた。

p.321
(徳富)盧花は私の知るかぎり、二回一高の教壇に立った。第一回は私の
入学の前年、「勝利の悲哀」という演題で全校生の血をわかしたそうである。
私が聞いたのは、卒業の年(明治四十四年)幸徳秋水の大逆事件の直後に
やった「謀反論(むほんろん)」であった。農民の預言者といった風体の
盧花は、ホーンのようなとぎれとぎれの、高い裏声で一昔前の反逆者も
時勢が変われば人々がその徳をたたえることになることを吉田松陰と
井伊掃部頭(いいかもんのかみ=井伊直弼)の例をひいて説き、
死刑に絶対反対を表明し、幸徳などの助命を出張したのであった。
この講演が当時の時勢として問題にならないわけはなかった。
それは新渡戸校長の進退問題にまで発展した。当時の情勢下で校長が
辞職をしないですんだのがむしろ不思議なくらいである。
こういうふうに一高三年間の思い出はつきない。残っているものは
師と友と書に対する感謝の気持ちである。これらは我々にパンを得る
のに役立つものを与えてくれたわけではなかった。しかしほんとうの
人生に必要なものを供給してくれた。実際我々は民法や刑法はもちろん
憲法の条文すらのぞいて見たことはなかった。

p.324
科目の勉強にはずいぶん時間をかけたが、余暇がないわけではなかった。
一高でそだった我々の仲間は法律学だけに没頭できなかった。いわゆる
勉強家と認められていた我々の中には点取り虫になること立身出世に
浮き身をやつすことに対する軽蔑の気持ちがあった。法律の書物以外に
外国語の文学書を耽読したものである。一番われわれが精力を傾注し
勉強時間の半ばくらいを費やしたのは、前に述べたキューゲルゲンの
「一老人の幼時の追憶」の翻訳であった。
これには一高卒業の年の夏休み前から着手した。
・・・我々は新渡戸稲造先生の紹介で森鴎外先生の校閲を依頼に先生の
団子坂上の邸宅にでかけた。鴎外先生は馬上でも読書をされているくらい
多忙だったときいていたから、ずいぶん厚かましい次第である。

p.338
ロンドンはパリ平和会議のあおりを食って宿舎難であった。私は市の西部
ホッランド・パーク六十六番の新渡戸稲造先生のパンションに、
数週間先生の応接間のソファの上で起居させてもらった。そのころ先生の
札幌時代からの親友の宮部金吾博士もそこに滞在していられた。
新渡戸先生は当時ロンドンにあった国際連盟の事務局の事務次長であった。
その間に私は偉大な教育者、国際主義者でかつ愛国者の人格や思想、
教養、日常生活にはじめて身近に接する得難い機会をもった。
先生はスプーンの上げ下ろしにいたるまで、必要なエティケットを
教えられた。我々は毎日のようにストーブをかこみながら夜を更かした。
クエイカーの教会にお伴にたこともあった。一緒に方々にでかけた。
シェイクスピア劇の切符は先生が、安価な音楽会の方は私が買うことに
した。私は先生の慈父の愛につつまれて、ロンドンの生活をはじめた
のである。
エピスコパル教会の牧師の紹介で、私はチェルシーの「カーライルの
家」に遠くない、信者の寡婦の家に室を見つけた。

引用おわりーーーーー(主に新渡戸校長と関わるところを抜粋)


田中氏は、その後、大正十一年(1922年)の初夏に帰国。
さまざまな遍歴を経て、最高裁判所長官を10年、さらに、国連で
国際司法裁判所判事に当選し、オランダのハーグに着任しました。
(昭和49年3月1日 没)

ハーグの国際司法裁判所(平和宮)については、こちら