2013/07/23

オークベイ・ビーチ・ホテル その2

2006年から、いったん閉鎖し、
すっかり建て替えられたホテルは、2012年12月1日に再オープン。
ところどころに昔の面影を残しています。

昔の正面玄関を再現したホテルのカフェ入り口。
当時の建材がそのまま使われているそうです。




ホテル内部も、昔の建物で使われていた建材を一部再利用した部分があります。

ホテルロビー

カフェ内部

このカフェは朝早くからオープンしています。
カフェには、古いホテルの写真も展示してあります。

そのほか、新渡戸夫妻が滞在した当時のスイートルームの
写真などを見せていただくことができました。




オークベイ・ビーチ・ホテル

2013年7月21日(日)〜22日(月)

新渡戸博士が、ロイヤル・ジュビリー病院に入院する前に
メアリー夫人と滞在していたオークベイ・ビーチ・ホテルへ。
こちらは、2006年から大規模な建て替えがおこなわれたそうです。
いったん更地にして、新しく建てられたので、昔の建物はなにも
残っていませんでしたが、海側の庭に石碑と橋が残されていました。









ヴィクトリア ロイヤル・ジュビリー病院

2013年7月20日(土)
ヴィクトリア(カナダ)新渡戸博士終焉の地

ヴィクトリア空港からダウンタウンへ空港バスで移動。
Delta Pointで、ヴィクトリア日本友好協会のバークレイ正美様が
お出迎えくださり、早速、Royal Jubilee Hospital(ロイヤル・ジュビリー病院)に
連れて行ってくださいました。

ここ数年ですっかり新しい建物に建て直されたそうで、残念ながら、
もう昔の面影はほとんどなくなっていました。




中庭には、「終焉の地」の石碑とチャペルが残されていました。
このチャペル(Pemberton Memorial Chapel) は、1909年の建立とありますので、
ここで、メアリー夫人が、新渡戸博士の回復を祈ったかもしれません。





バンクーバーからヴィクトリアへ

2013年7月20日(土)
pacific coast airline #103
8:00 バンクーバー空港(南ターミナル)発
8:25 ヴィクトリア空港着

空港の観光案内のパンフレットのラックにUBCの植物園の案内も
置かれていました。新渡戸記念庭園についても写真入りで載っています。




バンクーバーの空港は、釣りにでかける男性たちでにぎわっていましたが、
ヴィクトリア行きの定期便は、私一人?!



2013/07/20

聖アンドリューズ・ウエズリー教会

2013年7月19日(金)バンクーバー

1933年10月15日(日本時間16日)、ヴィクトリアで逝去した新渡戸博士の
お葬式が、バンクーバーの聖アンドリューズ・ウエズリー教会でおこなわれました。
この教会は、現在もバンクーバーの中心地域に現存しています。




案内の方のお話によると、この教会は、1925年に建てられたそうですが、
完成したのは、1933年ということですから、新渡戸博士のお葬式が
おこなわれた時は、まだ新しい教会だったようです。
美しいステンドグラスが印象的です。



新渡戸記念庭園(ブリティッシュ・コロンビア大学)

2013年7月19日(金)
バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学(University of British Columbia)
にある新渡戸記念庭園(Nitobe Memorial Garden)を訪ねました。
広いキャンパスは、緑の芝生が美しく、どこか高原のような趣きですが、
時々、鳴きながら空を横切っていくカモメの姿に、ここは海に近いということを
実感します。

ブリティッシュ・コロンビア大学キャンパス

新渡戸記念庭園のすぐ近く、車道をはさんだ反対側に、庭園設立に尽力された
ノーマン・マッケンジー(Norman MacKenzie)総長の家があります。
現在は、大学の施設として利用されているようです。

ノーマン・マッケンジー総長の家
〈  一九六〇(昭和三十五)年、二年かけて、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学
(University of British Columbia)の広大なキャンパスの一角に、新渡戸記念庭園が
完成しました。カナダで亡くなった稲造の功績をたたえるもので、国際連盟時代の
知人だったノーマン・マッケンジー(Norman MacKenzie)元ブリティッシュ・
コロンビア大学総長らによるものでした。〉
(『新渡戸稲造ものがたり』p.228-229)


新渡戸記念庭園入り口

庭園入り口の右側に受付があります。
自己紹介すると、歓迎してくださいました。
ここの庭園で、二時間あまり、ゆっくりと過ごしました。
これまで、国内外で多くの日本庭園を見てきましたが、この庭園には
感動しました。どこか思索的な雰囲気がただよっています。
葉や苔の緑が美しく、きれいに掃き清められ、水が打ってあります。
写真も数十枚撮影しました。
この庭園を訪れることができたこと、伝記を出版できたことを
心から「よかった」と思いました。

このあと、キャンパスの図書館で、新渡戸博士関連の資料を閲覧させて
いただきました。
'Intellectual life in various countries' etc


2013/07/19

NBC ニューヨークのラジオ局

2013年7月17日 ニューヨーク

新渡戸博士は、日本の立場を説明するために、晩年、
アメリカ各地で数多くの講演をおこなったほか、
数回、ラジオを通じて、演説をしています。
かつてラジオ演説をおこなったNBC(現在の外観)。

現在のNBC

かなり大きな建物で、上階には、展望台があり、
中では、観光客向けの放送局ツアーがおこなわれ、ニュース番組に出演している
ような体験ができたりします(展望台とツアー参加は、2008年)。

今回の調査で、ラジオ演説の内容(原稿)をいくつか入手することが
できました。

新渡戸稲造 共編「ポケット日英辞典」

2013年7月17日 ニューヨーク

ニューヨーク公立図書館(New York Public Library)で、
新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心、鈴木大拙、小泉八雲、ボナー・フェラーズ、
Isamu Noguchiの関連図書を調べてみました。

New York Public Library 正面

New York Public Library 一般閲覧室
外は、世界中の観光客でにぎわっている夏のマンハッタンですが、
図書館の中の閲覧室は、静かな空間で、思いがけず多くの人々がいます。
時々、観光客が内部の写真を撮りに入ってきます。
これまで訪問してきたボストンの公共図書館と同様、ここでも本はすでに
ディスプレイしてあるだけという感じで、ほとんどの人は、自分のコンピュータに
向き合っています。

主な検索結果
keyword 'bushido' 112 items
author 'nitobe' 30 items
author 'okakura' 43 itmes
author 'Lafcadio Hearn' 241 items
etc.

新渡戸博士の著書リストの中に、'A Pocket Japanese-English Dictionary' 1905
という辞書をみつけました。
1900年、アメリカで『武士道』を英語で出版した5年後に、
東京で出版されています。
見たことがないので、早速、閲覧することにしました。

まずは、図書館のカードを作ってもらい、閲覧の手続きを進めます。
レア本の閲覧室は、ドアが施錠されており、閲覧者のみ入室できます。

レア本のリーディング・ルーム(D.ロックフェラー寄贈)
辞書の背表紙(左)と図書カード(名刺大)



小さなサイズですが、厚い日英辞書です。
英語では「ポケット」となっていますが、本扉には、
「袖珍新式」と出ています。
さわるだけで、ぽろぽろと紙片がはがれてしまい、中の写真を撮影するのが
大変でした。



2013/07/16

セオドア・ルーズヴェルトの生家

2013年7月16日 ニューヨーク

アメリカの大統領で唯一マンハッタンで生まれた、セオドア・ルーズヴェルト
(Theodore Roosevelt)大統領の生家を訪ねました。


セオドア・ルーズヴェルト(1858年〜1919年)は、第二十六代アメリカ合衆国
大統領で、アメリカ史上、最年少の大統領です。
日露戦争の和平に努めたことで、ノーベル平和賞を受賞しています。

〈『武士道』の出版から数年後、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領は、
『武士道』を読んで初めて日本人の精神を知り、大変感動しました。早速、
三十冊を注文して、自分の五人の子どもたちに一冊ずつ与え、
「これを読みなさい。
 日本の武士道の高尚な思想は、われわれアメリカ人が学ぶべきことである。」
と言い聞かせました。さらに、アメリカの議員、大臣、親戚の人たちにも
贈り、ぜひ読むようにと勧めました。ルーズヴェルト大統領は、この一冊の本で、
すっかり武士道精神に魅せられ、日本から畳を取り寄せ、柔道のけいこをする
ようにまでなりました。〉
(『新渡戸稲造ものがたり』p.109〜)



見学ツアーで、内部を案内していただき、ルーズヴェルト家やセオドア・
ルーズヴェルト大統領に関する興味深いお話を伺うことができました、






パイン・ストリートの家

2013年7月14日 フィラデルフィア


スプルース・ストリートの家

2013年7月14日 フィラデルフィア

1891年(明治24)年1月1日、若き日本人留学生だった28歳の新渡戸稲造は、
アメリカ人のメアリー・エルキントンと、フィラデルフィアで結婚しました。
当時、二人が出した招待状によると、式のあと、スプルース・ストリート
(Spruce Street)の家に近親者を招いています。


その家は、番地もそのままに、残っていました。
ワシントン・スクエアに近い静かな住宅街です。
タウンハウスになっていますので、表面は大きくありませんが、後ろ側に
延びた造りになっています。

アーチストリートの飲水槽

2013年7月14日 フィラデルフィア

メアリーが所属していたアーチストリート(Arch Street)のミーティングハウス
のすぐ前の歩道で、興味深いものをみつけました。
石で作られた水槽か噴水のようです。
ちょうど通りかかった観光案内の人が説明していた話を聞いてみたところ、
かつて、馬車などが交通手段として使われていたので、その馬のための
飲水槽だったということでした。

左がミーティングハウスの塀、右に飲水槽

「PHILADELPHIA FOUNTAIN SOCIETY. INSTITUTED A.D. 1865」(裏面では1869)
 と彫ってありますので、もしその時に設けられたものなら、
1857年生まれのメアリーが幼少のころからあったことになります。

車道(馬の側)から見た飲水槽

すぐに思い出したのが、1915(大正4)年、新渡戸夫妻が発起人となって
始まった「日本人道会」です。

〈 ・・・欧米式の動物愛護精神を日本に広めるという大きな役割がありました。
 子どもたちや警察官に対する動物愛護の教育、牛や馬のための飲水槽
 (水飲み場)の修理や設置、動物愛護週間(牛馬を愛する日)を定めるなど、
 さまざまな活動をしました。〉
 『新渡戸稲造ものがたり』p.147

もしかしたら、幼いときから通っていたミーティングハウスの前にある
この飲水槽のことを覚えていて、日本での飲水槽設置につながったのかも
しれません。


この写真は、ミーティングハウスの中に掲示されていた古い写真の中の一枚。
アーチストリートに馬車が行きかい、塀の向こうには、ミーティングハウスの
建物が見えます。ちょうどこの左手のほうに、この飲水槽があります。
この馬たちもそこで水を飲んだのでしょうか。

結婚式がおこなわれたミーティング・ハウス

2013年7月14日 フィラデルフィア

アーチストリートのミーティング・ハウスで、日曜礼拝に出席、内部を見学させて
いただきました。
1891(明治24)年1月1日、新渡戸稲造とメアリー・エルキントンは、ここで
結婚しました。建物は、当時のまま、今日でも使われています。



ハウスの中には、ウィリアム・ペンの働きをあらわした人形劇、
その時代の物などの展示品などもあります。


2013/07/15

当時のフィラデルフィア

2013年7月13日 フィラデルフィア

〈 ペンシルヴェニア州(Pensylvania)フィラデルフィア(Philadelphia)は、
 イギリス人クエーカー、ウィリアム・ペン(William Penn)が建設した地で、
 もともと「ペンの森」という意味です。フィラデルフィアは、「兄弟愛」と
 いう意味で、宗教の違いで争うことのない、自由な町を作ろうという理想を
 もって築かれ、フレンド派の町としてよく知られています。〉
 『新渡戸稲造ものがたり』p.65〜66より

フィラデルフィアの街の中心に建つ市庁舎の最上部には、ウィリアム・ペンの像が
街を見下ろしています。


新渡戸博士は、札幌農学校の教授時代に、『ウィリアム・ペン伝』(1893年)、
『建国美談』(1894年)を書いています。

新渡戸博士が留学し、結婚した当時のフィラデルフィアについて調べるために、
フィラデルフィア・フリー・ライブラリーに行きました。
ここで、当時の地図で住所表記の確認、当時の街の写真を閲覧しました。

ジョンズホプキンズ大学留学時代に、フィラデルフィアを訪れていたのは、
1884年〜1887年のころです。そして、ドイツ留学を終えて、フィラデルフィアで
結婚したのが、1891年1月1日です。

地図のセクションで相談すると、大きなアトラスの地図を二つ出してくれました。
1885年版と1908年版です。そして、係の人が一緒に目的の住所を探してくれました。
現在の地図と見比べてみても、住所表記の変更はないようです。

アトラスの地図『フィラデルフィア』1885年


1890年代のフィラデルフィア('Still Philadelphia'より)

当時の写真を見ると、新渡戸博士の過ごしたころのフィラデルフィアが
まだまだ発展途上の街だったことがよくわかります。




2013/07/14

スワースモア大学

2013年7月12日 スワースモア(Swarthmore)

昨日に続き、朝早く電車で郊外へ。
今日は一日、スワースモア大学(Swarthmore College)で過ごす予定です。
昨日訪問したハヴァフォード大学、ブリン・モア大学、そして、スワースモア大学は、
協定校で、学生たちは、在籍している大学以外の二大学でも単位を取得する
ことができます。
スワースモア大学の「フレンズ・ヒストリカル・ライブラリー
(Friends Historical Library)」は、クエーカーに関する世界一のコレクションを
誇っているようです。
新渡戸夫人の実家エルキントン家も、多くの資料を寄贈しています。
どんな資料を閲覧させていただけるのか、楽しみです。

スワースモア大学正門

フレンズ・ヒストリカル・ライブラリー
Nitobe、Elkintonの名前がついているフォルダーボックスがたくさんあります。


多くの写真、私信、記録・・・
内村鑑三からメアリー夫人へのはがき、オークベイビーチホテルや
軽井沢の別荘のレターヘッドで書かれた手紙など。

新渡戸博士が、1891年に札幌から義弟ジョセフに書いた手紙もありました。

〈 細長い封筒に入った彼らの直筆の文字は、何度も太平洋を越えていきました。
 メアリーの弟ジョセフに稲造が書いた一通は、三メートル近い長さに
 及ぶものもあったそうです。〉
 『新渡戸稲造ものがたり』p.85より
(同書p.159に、来日したジョセフの写真掲載)

和紙の巻紙に、毛筆で英文を延々と書いています。

そして、そのジョセフの妻、サラ(Sarah P. Elkinton)が書いた一冊の厚いノート。
メアリーから送られてきた手紙を書き写した記録です。
当時は、手書きで記録を残すことが、一族の伝統であった、との説明でした。



そのほか、一日ではとても目を通せないほどの豊富な資料を閲覧させて
いただきました。ありがとうございました。





2013/07/13

ブリン・モア大学

2013年7月11日 ブリン・モア(Bryn Mawr)

この日は、朝早くフィラデルフィアのホテルを出発し、
オーバーブルック、ハヴァフォード、そして、最終目的地の
ブリン・モアに向かいます。
ハヴァフォード大学で、「たった2マイルよ」と聞いたので、
歩き始めましたが、夕方とはいえ炎天下の中、一時間近くもかかって
しまいました。
やっと着いたブリン・モア大学のキャンパスの美しさに目を見張りました。


まるで、中世のイギリスに迷いこんだような感じです。
なだらかな芝生の谷の向こうにお城のような校舎がそびえたっています。

この大学では、新渡戸博士の友人だった津田梅子(津田塾大学の創設者)や
教え子だった河井道(恵泉女学園の創設者)が学びました。
大学図書館で、津田梅子氏の在学当時の写真を見せていただきました。

ブリン・モアの駅から帰途に着きました。
この日は朝から多忙な一日でしたが、親切な方々に出会い、充実した時間を
過ごすことができたことに感謝しながら、フィラデルフィアに戻りました。



ハヴァフォード大学

2013年7月11日 ハヴァフォード(Haverford)

オーバーブルックで、フレンズ・セントラル・スクールと
フィラデルフィア日本語授業補習校事務所を訪問した後、
ハヴァフォード大学(Haverford College)を訪ねました。
新渡戸稲造、夫人の実家エルキントン家、クエーカーに関する資料は、
主にハヴァフォード大学と、スワースモア大学に保管されています。


ハヴァフォード大学は、1833年創立の伝統ある私立名門大学。
徹底した少人数教育をおこなう名門リベラル・アーツ大学です。
こじんまりとした美しいキャンパスです。
新渡戸博士の養子・孝夫(よしお、稲造の姉・喜佐の次男)は、
この大学を卒業しています。

Magill Library

Quaker & Special  Collections in Magill Library

ここでは、貴重な資料を閲覧・撮影させていただきました。
新渡戸博士の著書の初版本もいくつかあり、初めて、手にとって見ることが
できた本もあります。

'Reminiscences of Childhood' 表紙


'Reminiscences of Childhood' 見返し

'Editorial Jottings' 表紙
'Editorial Jottings' 見返し

新渡戸稲造、メアリー・エルキントンの結婚式の記録も閲覧。
式の様子、出席者名一覧が書かれていました。
出席者の中には、日本人の名前と思われる三名の名前がありました。

閉館まで滞在、このあと、ブリン・モア大学へ向かいます。