2013/05/02

唐人お吉と新渡戸稲造博士 宝福寺(下田)

2013年4月20日(土) 下田 宝福寺(下田開港時の仮奉行所)

アメリカ初代総領事ハリスのもとで奉仕することを命じられ、
恋人とも引き離されたお吉(斎藤きち)さんでしたが、大金の契約金を得たこともあり、
下田の人々から嫉妬と偏見の目で見られてしまいます。

斎藤きち(17歳のころ)
幕末の動乱に巻き込まれ、その後、1882(明治15)年、下田で小料理屋
「安直楼」(建物は現存)を開きましたが、数年で店をたたみました。
(お吉さんの没後、寿司屋として三代108年続き、現在は下田市歴史建造物)

史蹟 安直楼
1890(明治23)年3月25日(過去帳の記録では27日)の豪雨の夜、
お吉さんは下田川(稲生沢川)の上流で投身し、はかない生涯を閉じました。
どこも引き取りを拒んでいたところ、宝福寺住職の竹岡大乗師が快く引き受け、
お墓に葬りました。

宝福寺 入り口


宝福寺さんには、お吉さんのお墓と記念館があります。
記念館には、前田青邨画伯(1885年〜1977年、鎌倉にて没)が描いた「お吉の生涯」、
お吉の着物などが展示されています。

前田青邨画伯「お吉の生涯」の中の一枚

1933(昭和8)年7月、新渡戸稲造博士は、下田を訪れ、当時旅館だった
平野屋さんに宿泊し、次のように書き残しています。



さかりをふ
見る人多し
散る花の
あとを訪(と)うこそ
情なりけれ

稲造

宝福寺さんの竹岡宏子様から貴重なお話を伺いました。
ありがとうございました。

宝福寺ホームページは、こちら