2013/05/15

『河井道と一色ゆりの物語』

新渡戸稲造博士の教え子の一人で、恵泉女学園の創立者である
河井道(かわい みち)先生と、その河井と家族のような親交があった
一色ゆり(旧姓 渡辺)さんについて、一色ゆりのご長女、一色義子さんが
書かれた書籍が、昨年12月に刊行されました。
河井道とゆりの師弟関係を、「恵みのシスターフッド」として紹介。
また、クエーカーで軍人のボナ・F・フェラーズ(Bonner F. Fellers)との
関わりについても書かれています。

『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』
一色 義子 著
キリスト新聞社
2012年12月25日

河井道は、新渡戸夫妻と渡米し(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.103〜)、
かつて津田梅子(津田塾大学創立者)も学んだ、アメリカ東部の
ブリンマー大学を卒業して、帰国後、津田塾大学の教師になりました。
そこに入学してきたゆりは、津田塾を卒業すると、河井の導きで、
アメリカの共学アーラム大学(新渡戸稲造の信仰したクエーカーの学校)に留学。
1914年、アーラム大学の上級生になったゆりは、あるクエーカーの入学生の
指導を担当することになります。
アーラム大学では、上級生が一年生の指導責任をそれぞれもたされたからです。
(『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』p.64)

その入学生こそが、イリノイ州の農家からやってきた、ボナ・フェラーズ。
後年、終戦後の日本にマッカーサーと共に副官として来日することになる
人物です。

さて、アーラム大学を優等賞で卒業したゆりは、日本に帰国。
一方、フェラーズは、アーラム大学を二年で修了して米国陸軍士官学校の
ウエストポイントに入り軍人になります。
1922年、フェラーズは、初来日。

〈ゆりは、河井と二人で、この若い青年フェラースをすき焼屋でご馳走します。
河井道は、そのころ既に、YWCAだけでなく、・・・
世界学生連盟の副議長も務めており、世界的青年指導者の一人になっていました。
もっとも軍人らしくない、卒業任官で陸軍中尉の青年フェラースは、
河井道のキリスト教の国際的な姉妹兄弟観にすっかり共鳴しました。
この時からフェラースはゆりとともに河井道を尊敬し、敬愛する親しい友人に
なりました。「日本をもっと知りたい」というフェラースに、ゆりは英語で
書かれた日本が分かるような本といえば、当時はラフカディオ・ハーンのもの
ぐらいしか思いつかなかったのです。英語で読む日本の風物といえばやはり
ハーンかと思い「私はハーンの思想は好きではないけれど」と言いながら
「確かに私がフェラースにハーンを紹介した」と。ゆりは後々までそのことを
語って苦笑していました。後に日本に来たフェラースはハーンの著作を全部読了し
ハーンの大愛読者になりましたが、ゆりはそのきっかけを作ったのです。〉
(『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』p.79-80)


その後も、1925年に結婚したばかりのドロシー夫人をともなって再来日するなど、
フェラーズは、河井、ゆり、そして、ゆりの家族との親交を深めます。

「太平洋の架け橋になりたい」という志を生涯貫いた新渡戸稲造博士は、
晩年、両国の関係修復と、戦争回避のために、命を惜しまず尽くしましたが、
没後、太平洋戦争が勃発。
新渡戸の教え子だった河井、その弟子ゆり、そして、ボナーズは、
祖国同士が戦うという苦悩の日々を送ることになったのです。

〈日本は敗戦し、・・・GHQの最高司令官マッカーサーとともに、
軍事秘書官のボナー・F・フェラーズが来日しました。フェラーズは、
カーライルを学び、稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神を
よく理解しているクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の
一色ゆりの友人でもありました。
フェラーズは、二人を、1945(昭和20)年9月、アメリカ大使館に招きました。
昭和天皇とマッカーサーが初めて会見する四日前のことです。連合国が
昭和天皇を戦犯として裁くべきかといく問題について、フェラーズは二人に
意見を聞きました。(続く)〉
(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.223)

さまざまな局面を経て、結果的に、アメリカは方針を大きく転換し、
日本の天皇制存続を決定しました。

同書『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』は、
一色ゆりの娘、そして、家族のように河井道と共に生活した著者による、
シスターフッド(姉妹性)の恵みを著した本です。

人と人のつながり、人と人の信頼関係、そして、そこから生まれる人間の叡智。
河井道の師だった新渡戸稲造博士の生涯、新渡戸と関わった多くの人々、そして、
教え子らに引き継がれた精神と、通じるものがあると感じます。

フェラーズのことが映画になり、2013年7月、封切りになりました。
この映画「終戦のエンペラー」については、こちら


2013/05/02

唐人お吉と新渡戸稲造博士 お吉地蔵

2013年4月20日 下田の「お吉地蔵」

古奈温泉「東府や」さん、下田の宝福寺さんを訪問後、新渡戸博士がお吉さんを
慰めるために、お吉さんが身を投げたお吉ヶ淵に建立した「お吉地蔵」を訪ねました。

昭和8年、新渡戸博士が建立した「お吉地蔵」
新渡戸稲造博士は、カナダで亡くなる年、1933(昭和8)7月16日、下田を訪れ、
日米関係のために尽くしたお吉さんを偲んでいます。
その時、地蔵を石屋に注文し、お吉ヶ淵に建てるよう頼みました。
その地蔵尊の背面には、自身の最愛の母の命日にあたる「七月十七日」と刻むように
依頼したとされていますが、いまでは、摩滅して確認することができません。

「お吉地蔵」の背面
新渡戸博士は、結局、自ら建てたこの地蔵を見ることはありませんでした。
帰京後、カナダのバンフでおこなわれた第五回太平洋問題調査会の会議に
日本団を率いて出席。その後、カナダのヴィクトリアで静養していましたが、
ヴィクトリアの病院に入院、手術後、
同年10月15日(日本時間16日)、その生涯を閉じたのです。

今回訪問しました、下田の宝福寺さんについては、こちら
古奈温泉「東府や」さんについては、こちらをご覧ください。




唐人お吉と新渡戸稲造博士 宝福寺(下田)

2013年4月20日(土) 下田 宝福寺(下田開港時の仮奉行所)

アメリカ初代総領事ハリスのもとで奉仕することを命じられ、
恋人とも引き離されたお吉(斎藤きち)さんでしたが、大金の契約金を得たこともあり、
下田の人々から嫉妬と偏見の目で見られてしまいます。

斎藤きち(17歳のころ)
幕末の動乱に巻き込まれ、その後、1882(明治15)年、下田で小料理屋
「安直楼」(建物は現存)を開きましたが、数年で店をたたみました。
(お吉さんの没後、寿司屋として三代108年続き、現在は下田市歴史建造物)

史蹟 安直楼
1890(明治23)年3月25日(過去帳の記録では27日)の豪雨の夜、
お吉さんは下田川(稲生沢川)の上流で投身し、はかない生涯を閉じました。
どこも引き取りを拒んでいたところ、宝福寺住職の竹岡大乗師が快く引き受け、
お墓に葬りました。

宝福寺 入り口


宝福寺さんには、お吉さんのお墓と記念館があります。
記念館には、前田青邨画伯(1885年〜1977年、鎌倉にて没)が描いた「お吉の生涯」、
お吉の着物などが展示されています。

前田青邨画伯「お吉の生涯」の中の一枚

1933(昭和8)年7月、新渡戸稲造博士は、下田を訪れ、当時旅館だった
平野屋さんに宿泊し、次のように書き残しています。



さかりをふ
見る人多し
散る花の
あとを訪(と)うこそ
情なりけれ

稲造

宝福寺さんの竹岡宏子様から貴重なお話を伺いました。
ありがとうございました。

宝福寺ホームページは、こちら




2013/05/01

唐人お吉と新渡戸稲造博士 東府や

2013年4月20日(土)早朝、東京の自宅から伊豆下田へ向かいました。

新渡戸稲造博士は、亡くなる年、1933(昭和8)年の夏、太平洋問題調査会の
バンフ会議(カナダ)に日本代表として出席するために、
健康の不安をかかえながら、最後の旅に出ます。

その直前、多忙の中、7月にわざわざ下田を訪れています。
「唐人お吉」と呼ばれた日本人女性「お吉さん(斎藤きち)」を偲ぶためでした。

多忙なこの時期に、新渡戸博士はなぜ下田まで足を延ばしたのでしょうか、
それがずっと気になっていました。

途中、まず訪れたのは、伊豆古奈温泉「東府や(とうふや)」さんの中にある、
「唐人お吉館」です。


東府や「唐人お吉館」内の展示(一階)
「唐人お吉館」内に展示されている新渡戸博士の詠んだ歌
かつて、アメリカ総領事館初代領事タウンゼント・ハリスに仕え、
その後、不幸な人生を歩んだお吉さんに新渡戸博士は深く同情していたのです。

唐くさ(からくさ)(から竹)の
浮き名の下に枯れはてし
君が心は大和撫子

新渡戸稲造

お吉さんは、47歳の時に、伊豆最古の温泉、古奈温泉にて療養します。
心身ともに癒されたお吉さんを、東府やは、駕篭で下田まで送り届けます。
その時、天城越えで使った駕篭が、「唐人お吉館」二階に展示されています。


ここ古奈温泉は、徳川家康の側室「お万の方」が滞在したところです。
それまで子宝に恵まれませんでしたが、二人の子を授かりました。
(徳川頼宣・・・紀州徳川家の祖、および、徳川頼房・・・水戸徳川家の祖)

そのことから、古奈温泉は子宝の湯として広く知られています。