2019/06/20

田中舘愛橘顕彰会

2019年6月16日(日曜日)国際文化会館(東京)にて

新渡戸博士と田中舘愛橘博士は、同郷(新渡戸は盛岡、田中舘は二戸)、
「心の友」だったそうです。
盛岡ではなく、東京英語学校で初めて出会いましたが、その後の
約30年間は特に付き合いのあった痕跡がないそうです。
新渡戸より歳上の田中舘ですが、新渡戸よりも二十年近く長く生き、
太平洋戦争、日本の敗戦を見届けています。

新渡戸稲造(1862年〜1933年)
田中館愛橘(1856年〜1952年)終戦は、1945年





両者とも自らの専門をもちつつ、後進の指導によって
多くの優秀な弟子を育て、さらに、国際的に活躍しました。

この日、田中舘博士のひ孫(松浦明氏)主催の顕彰会がおこなわれ、
1 松浦氏による「愛橘顕彰会の最近の動向」のご発表、その後、
2 盛岡の新渡戸基金代表の藤井茂氏が、
  「田中舘愛橘とノーベル賞」の演題でお話になりました。

藤井茂氏(左)と松浦明氏(右)
冒頭に、松浦さんは、田中舘博士のご臨終の日についての思い出を
話してくださいました。
まさにご臨終の時、弟子の中村清二博士は、大きな声で、
「みなさん、田中舘先生にお礼を言おうではありませんか」と
告げ、みんなでお礼の言葉を言ったこと、誰も泣いていなかったこと、
自分だけはどうしても涙が出てきたこと・・・。
松浦氏は、経堂(東京都世田谷区)で、晩年の曽祖父(愛橘)と
数年ご一緒に暮らしています。

田中舘愛橘(曽祖父)とともに 右端が松浦氏


松浦氏ご所蔵の田中館愛橘資料


1 愛橘顕彰会の最近の動向

(1)シルビアシジミ(蝶)の本に登場した田中館愛橘

『シルビア物語』中村 和夫 著 2018年12月20日 発行 随想舎
この本の中で、明治初めに英国から来日した、
モンタギュー・アーサー・フェントン(Fenton)の蝶の採集旅行に、
若き学生だった田中舘が同行したことが書かれているそうです。
フェントン27歳、田中舘17歳。

(2)海上保安庁からの公文書の紹介

このたび、太平洋のある海底海山群に「田中舘海山群」と
命名されたそうです。
(ニュージーランドの海底地形名称委員会による)





そのほか、経堂での愛橘展について(2019年秋の開催予定)などの
報告がありました。




2 田中舘愛橘とノーベル賞

田中舘博士は、日本人で一番数多くのノーベル賞クラスの学者と
交流した一人、1910年にノーベル賞推薦人になっています。
(日本人で第2号の推薦人。第3号は、長岡半太郎で、長岡の推薦で
 後年、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞している)

新渡戸博士は、国際連盟の事務次長(国際部長)として、知的協力委員会
(いまのユネスコの前身)を招集し、キュリー夫人、アインシュタイン、
ベルグソンなどノーベル賞クラスの学者が集いました。
新渡戸が帰国すると、田中舘が、委員に選ばれ(昭和2年〜8年)、
その後、新渡戸が委員に任命されたが、惜しくもカナダで亡くなり、
委員として活動することはありませんでした。





いずれにしても、田中舘、新渡戸の両名は、世界的な学者たちと
交流した日本人。

さらに、新渡戸は、平和賞受賞に値する活躍をしました。
・オーランド問題の解決
・知的協力委員会の招集(学者が交流することによる平和の追求)
(当時は、国境を超えた学術交流が少なかった)

当時の国際連盟の職員による人気投票で、
全員一致の第1位が新渡戸稲造。
第2位は、フリチョフ・ナンセン(1922年にノーベル平和賞受賞)、
第3位は、ロバート・セシル(1937年にノーベル平和賞を受賞)。


藤井氏による二人の共通点は、
・分け隔てなく人と付き合う
・偉ぶらない
・国際社会で、日本人の良き見本となった
(日本の評判を高くした)



貴重なお話と資料をありがとうございました。