2018/10/28

キリスト友会 フレンズセンターの公開

2018年10月27日(土曜日)12:00〜

東京都港区三田に、「キリスト友会 フレンズセンター」があります。
新渡戸博士は、終生、クエーカーでしたが、ここは、古くから、
日本/東京のクエーカーの拠点です。

この日、東京都の文化財として、一日のみ公開されるということで、
訪ねてみました。

「米国から派遣された宣教師の住居として、ヴォーリス建築事務所の
設計で建てられました。戦後は、ララ物資の拠点や、
E・バイニング夫人をはじめ多くの人々の交流の場や宿泊施設となり、
現在も宿泊施設として利用されています」
「2018年 東京文化財ウィーク」冊子p.7より
(主催 東京都教育委員会/ 後援 文化庁)












以前、同じ敷地内の会堂は訪問したことがありましたが、今回、
こちらの文化財の建物の中は初めて見学させていただくことができました。
1920年代の建築なので、新渡戸博士ご夫妻も訪問されたことがあるはずです。
戦火も生き延びた貴重な文化財で、一日限りの公開日に
多くの方々が訪問されていました。
ヴォーリズ建築らしい造りが感じられました。
外壁は、新しくなっていますが、内部の造りはほとんど当初のままと
いうことです。
思いがけず、大津先生(普連土学園財務理事)にも久しぶりに
お目にかかることができ、嬉しい一日になりました。

大津先生が来訪者たちのいろいろな質問に答えていらっしゃいました。
ありがとうございました!

このすぐ近くに普連土学園があります。
若き留学生だった新渡戸博士たちの熱心な意見を聴いて、
設立された女子教育のためのフレンド派の学校です。


2018/10/10

小泉八雲の文学とその背景

カルチャーラジオ 文学の世界
NHKラジオ第2毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時

文化講演会「小泉八雲の文学とその背景」

小泉八雲記念館館長、島根県立大学短期大学部名誉教授…小泉凡

小泉八雲さんのひ孫さん・小泉凡さんのお話が放送されている中、
第11回では、ボナ・フェラーズが取り上げられています。

『新渡戸稲造ものがたり』p.222~

新渡戸稲造博士の「精神的子孫(spiritual descendants)より

 日本は敗戦し、連合国の占領下になりました。連合国最高司令官
総司令部の最高司令官マッカーサーとともに、軍事秘書官ボナー・
F・フェラーズが来日しました。フェラーズはカーライルを学び、
稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神をよく理解して
いるクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の一色ゆり
(旧姓・渡辺)の友人でもありました。(引用終わり)

フェラーズは、河井道と一色ゆりの二人からの意見も参考にして、
報告書を作成し、天皇陛下を裁くのではなく、
日本国民の天皇陛下への尊敬心を、むしろ日本統治にいかすことを
提案したのです。
フェラーズは、戦前から、小泉八雲の著書を読み、日本人の精神性を
理解していました。そして、小泉家とも親交がありました。

小泉凡さんの「ボン」という名前は、ボナー・フェラーズの名前から
付けられています。
凡さんは、この回の最後に、
「人との出会い、書物との出会いが、歴史を作るときがある」
と述べています。

NHKラジオのホームページ(聞き逃しが聴けます)は、こちら

2018/06/25

渋沢栄一の孫「鮫島純子」様と新渡戸博士

2018年6月25日

最近の読書記録メモ

鮫島純子(渋沢栄一 孫)著
『祖父・渋沢栄一に学んだこと』
2010年10月15日 文藝春秋

P.86〜88「新渡戸稲造先生」より抜粋

あれは、私が小学校低学年の頃でした。
その日は記者で名古屋に向かいましたが、・・・
父(渋沢栄一の四男 正雄)は、車内に落ち着くやいなや
向かい合わせの席に書類を広げ、社用を片付けていました。
列車が浜松にさしかかる頃、さすがに飽きた私は、
背中合わせに座っておられる上品な白髪のご老人と目が合い、
ニコッと笑いかけました。
これがきっかけで、このご老人との車内文通が始まりました。
はじめ彼はノートの切れ端に
「お名前は何といわれますか?」と書いて渡されました。
「純子と申します」
「どこまでゆかれますか?」
「名古屋でございます」
「お年はいくつですか?」
飽きもせず、背中合わせのたどたどしい文字のやりとりは
エスカレートし、ご老人のボックス席に入り込んでお話を
うかがうことになりました。

「ご家族と一緒に楽しい旅ができるということは、
 なんとお幸せなことでしょうね」
と言われ、それにはたくさんの方々のご恩を受けてこそですね
と説明されてから、私の指をとって一本一本折り曲げながら、
誰のお陰でこうして旅に出られたかを考えるように促されました。
「お父様、それから?」というように、留守番の人々から、
旅に出る服を調(ととの)えた人、列車を運転している運転手さん
に至るまで・・・。

そしてそれも種が尽きる頃、「お天道様や空気や雨もなくては
なりませんね。それはどなたがくださったのでしょう?」と
誘導して、神の大いなる恵みの中にわれわれは生きているので、
誰ひとりとして自分だけの力や働きで生きていられるのではないことを
話されました。

そろそろ名古屋に着くので、降りる支度を始めるようにと、
立ち上がって私たちのほうを見た父が、
「おや、先生じゃいらっしゃいませんか」と進み出て、
丁寧にご挨拶しました。

このご老人こそは、一高時代の恩師でもあった新渡戸稲造博士だったのです。
新渡戸先生は、栄一とご一緒の写真がいくつか残っています。
日米交流に尽くした御両者ですので、交流も深かったことでしょう。
私はあの優しいご老人が、読書の邪魔をした見知らぬ少女の心にさえ、
神の恩寵に気づくよう促されたのを折に触れ思い出し、
感激しつつ、心に蘇らせています。

(以上、抜粋終わり)

〈補記〉 同書 「鈴木貫太郎大将」p.117より
昭和17年4月、鮫島員重氏と結婚
帝国ホテルと華族会館で披露宴
仲人は、鈴木貫太郎・たか夫妻


2018/06/20

『ハーバード白熱日本史教室』の「武士道」

2018年6月

『ハーバード白熱日本史教室』北川 智子 著 新潮新書

同書で説明されている(著者がハーバード大学の授業で
学生たちに講義した)「武士道」は、下記のような内容です。

同書のp.62より抜粋

武士道は「創造された日本らしさの象徴」

武士道という言葉が世界中に広まるのは、1900年、
新渡戸稲造が『Bushido: The Soul of Japan』を出版して以来のことで、
それほど昔もことではないのです。
・・・広い意味でサムライまたは武士は古くから存在し、彼らが
したためた書物は多数存在していました。
しかし、ここで重要なのは、彼らが共通してあがめる、
いわばバイブル的な武士道があったわけではない、ということです。
武士道という言葉が長く使われていたわけではなく、サムライが、
武士道を貫くために生きていたわけでもない、という点です。
つまり、新渡戸稲造が日本人の倫理を語る概念として作った
「武士道」が、20世紀初頭に世界に向けて発信され、
それがあたかも以前から存在していたものであるかのように
受け入れられてしまったのです。
(中略)
つまり、新渡戸の武士道は、歴史史料を引用した歴史事実ではなく、
時代が新渡戸に想像させた新しいコンセプトだったのです。
そして、この史実とかけ離れた、強すぎる武士道は一人歩きを
はじめます。

2018/05/31

『海の武士道』'The Bushido over the Sea'

2018年5月

『海の武士道』 惠 隆之介 著 産経新聞社 平成20年12月

p.11より

元英国海軍中尉サムエル・フォール卿
「太平洋戦争中の1942年3月2日、ジャワ海で、英国海軍将兵400人以上が
 漂流中に、偶然この海域を通りがかった日本海軍の駆逐艦に発見された。
 その直前、英海軍将兵たちは約24時間近く漂流していたため、
 生存の限界に達していた。軍医はすでに自決用の劇薬を全員に配布し
 終えており、仲間のうち数人はそれを服用しようとしてフォール卿から
 制止されていた。
 自決をためらうフォール少尉は、眼前に突然現れた日本海軍の駆逐艦を
 見た時、『日本人は野蛮』という先入観から、いよいよ機銃掃射を受けて
 最期を迎えると覚悟した。
 ところがその駆逐艦『雷』(1680トン)は、直ちに救助活動に入り、
 終日を費やして漂流中の英国海軍将兵全員を救助した」。
///

 艦長は、工藤俊作である。

同書によると、工藤が学んだ海軍兵学校の校長だった鈴木貫太郎の教育方針は、
「武士道」であったという。生徒の歴史の知識が不足していると感じた
鈴木校長は、文学士の教授に頼んで、講義をしてもらった。
艦長となった工藤もまた「鉄拳制裁(こらしめるために殴ること)」を
禁止し、民主的なリーダーシップを発揮して乗員たちに慕われた。

上記、フォール卿は、日本海軍による友情あふれる救助活動に対し、
次のように語ったそうである。
「日本の武士道とは、勝者は驕ることなく敗者を労り、その健闘を称える
ことだと思います」。

「鈴木貫太郎とたか夫人」は、こちらへ。

2018/05/05

㊗️東京女子大学創立100周年

2018年4月30日(月曜日・祝日) 晴れ

素晴らしい春晴れになりました。
本日、東京女子大学創立100周年の式典に参列しました。
講堂での式典に続き、懇親会がおこなわれました。
新渡戸稲造博士は、同大学の初代学長です。
新渡戸記念室では、100周年記念展も開催されています。

心よりお祝いを申し上げます。






2018/04/04

鈴木貫太郎と妻タカ夫人

『武士道』のその後
(『新渡戸稲造ものがたり』p.225より下記を引用)

第二次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト
大統領が亡くなると、鈴木貫太郎首相は、アメリカと戦争中にも
かかわらず、偉大な指導者を失ったアメリカ国民に対し、
日本を代表してすぐにお悔やみの電報を送り、
その全文がアメリカの新聞に載りました。
ドイツの作家で、当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは、
「ドイツでは、みんなが万歳、万歳と叫んでいるのに、
 日本はお悔やみの言葉を送ってきた。
 やはり、日本はサムライの国だ」
と語ったと言われています。敵の国に対するこのような態度に
よって、「武士道」の精神が国境を越えて、世界の人々に
感動を与えました。

(『新渡戸稲造ものがたり』第十三章 没後 稲造が遺したもの)
(引用終わり)

終戦時の難しい時期に首相を務めた鈴木貫太郎の妻たか夫人の父は、
新渡戸稲造と札幌農学校で同期生の足立元太郎です。

・鈴木たか
1883(明治16)年、札幌生まれ。戸籍名は「たか」。
(鈴木貫太郎は、「孝子」などと記述している場合がある)
父、足立元太郎は、札幌農学校卒業、農商務省横浜生糸研究所技師。
東京女子高等師範(いまのお茶の水女子大学)で幼児保育を学び、
同附属幼稚園の教師。
明治38年から大正4年までの10年間、裕仁(昭和天皇 4歳〜)、
秩父宮(3歳〜)の養育係。
1915(大正4)年、海軍次官鈴木貫太郎と結婚。

たか夫人が、幼稚園の教師だった時の教え子の祖父に菊池大麓(だいろく)
がいました。
菊池は、学習院院長、東京帝国大学総長、文部大臣、
枢密顧問官などを歴任、皇室と強いつながりがあり、その推薦で、
たかは、皇室の養育係となりました。

子どもの頃の昭和天皇と一緒に遊び、昭和天皇の誕生日には、
毎年呼ばれました。

1978(昭和53)年十二月、昭和天皇は、須崎御用邸での記者会見で、
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくしました。・・・」
と話されています。

鈴木貫太郎は、太平洋戦争の始まる前の1936(昭和11)年2月に起きた
二・二六事件で襲撃され、最後の一撃を制止させたのが、
たか夫人です。(当時、鈴木貫太郎は侍従長)
(この事件の前夜、鈴木貫太郎夫妻や斎藤實夫妻らは、アメリカのグルー大使に
招かれ、外出していました)
事件が起こったのは、その翌日の早朝のことでした。
鈴木貫太郎がピストルで何発か撃たれて倒れ、「トドメ、トドメ」の声が上がると、
銃剣とピストルを突きつけられていた夫人が、
「とどめはどうかやめていただきたい」
と叫び、入ってきた指揮官の安藤輝三(歩兵第三連隊の将校)が、
「トドメは残酷だからやめろ」
と命じました。かつて、秩父宮の直接の部下だった安藤は、
皇子たちの養育係だった、たか夫人の存在を知っていたようです。
指揮官は、たか夫人に、
「奥さんのことは、かねてお話に聞いておりました。
 まことにお気の毒なことをいたしました。
 ・・・ひまが(時間が)ありませんからこれで引き揚げます」
と言い残して、立ち去りました。
出血多量の重症を救った医師の一人、塩田広重東大教授を呼んだと
されているのが、町村金五(宮内大臣秘書官)。
町村の父、町村金弥もまた、足立元太郎(たか夫人の父)と札幌農学校で
同期でした。

鈴木首相夫妻は、二人とも昭和天皇に近い存在で、陛下から信頼されて
いました。
1945(昭和20)年、首相に任命された鈴木は、辞退すると、天皇陛下から
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時にあたってもう他に人は
いない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
と直接言われたことから、高齢(77歳)にもかかわらず
引き受けました。たか夫人は、夫の覚悟を知ります。

たか夫人は、嫁入りの時、日本刀を持参、
そして、戦後、鈴木首相の故郷の関町に隠居して、地域の農業振興を
支援しました。たか自身も酪農の知識があったようです。
札幌農学校で学んだ父、そして出身地北海道の影響でしょうか・・・。

鈴木貫太郎記念館の入り口にある「為萬世開太平」

鈴木貫太郎 肖像画

記念館の内部

鈴木貫太郎記念館 入り口付近

鈴木の父、由哲の教えは、
「人間は怒るものではないよ、怒るのは、自分の根性がたりないからだ。
 怒ってすることは、成功しない」。
母、きよの教えは、
「絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。
 これが親に対するなによりの孝行である」。

鈴木の教訓は、
『正直に 腹を立てずに たゆまず励め』

鈴木没後も、たか夫人は度々この教訓を書き残しました。
二・二六事件で命を狙われ、終戦に反対する勢力に家を焼かれた
鈴木夫妻が、それでも自らの境遇を受け入れ、祖国や天皇陛下への
忠誠心を常に強く持ち続けた生涯を思うと、
両親の教えと、この教訓が重く響きます。

参考資料:『妻と家族のみが知る宰相』保阪正康 毎日新聞社
     『昭和天皇の親代わり 鈴木貫太郎とたか夫人』若林滋 中西出版
      カルチャーラジオ NHKラジオ アーカイブス
      「声でつづる昭和人物史 鈴木貫太郎の妻たか夫人」

鈴木貫太郎記念館 訪問日 2018年1月7日(写真撮影)

2018/01/19

新しいテレビ番組

2018年1月18日

盛岡の新渡戸基金さんからお知らせがありました。
以前、テレビ番組制作に協力しました「岩手めんこいテレビ」さんが
新渡戸シリーズの新番組を放映するようです。
東京でも視聴できるといいのですが・・・



1月21日(日)午後1時から
岩手めんこいテレビ
「新渡戸稲造の青春~ドイツ留学と武士道~」