2017/05/23

京都看護婦学校と佐伯理一郎

「同志社と看護学教育」
岡山 寧子(おかやま やすこ)
同志社女子大学看護部長
同志社女子大学看護学部教授

出典:下記(p.72-91)
『良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ起リ来ラン事ヲ』
Doshisha Spirit Week 講演集 2015
2017年3月15日
同志社大学キリスト教文化センター 発行

=====講演記録より、以下に抜粋、要約。

○「看護」という言葉=看る(みて)+ 護る(まもる)
=人類がこの世に誕生した時からあるもの

○看護専門職の登場=ナイチンゲールの看護教育

「看護は、患者の生命力の消耗を最小限にすること」
ナイチンゲール著『看護覚え書』

19世紀中頃、F.ナイチンゲールは、看護学校を設立
(いまのセント・トーマス病院、ロンドンの国会議事堂のテムズ川を
はさんで向かい側)
卒業生たちが世界各地で看護教育、看護の実践。
日本でも明治の初めに『看護覚え書』(当時は『看護の栞』)が紹介される。
1886年、京都看護婦学校で、ナイチンゲールに直接指導を受けたL.リチャーズに
よる看護教育が開始。
ナイチンゲールの看護思想は、看護の原点、つまり、医療の発展の中で、
なにを看護の対象にするか、「病気」を見るのではなく、「人」を見る。

○この新島襄の医療への志を継いだのが、(新渡戸博士の友人)佐伯理一郎医師。
『京都看護婦学校五十年史』(佐伯理一郎 著 1936年)

同志社主導の病院、学校は、新島没後、佐伯医師が管理者となる。
産科医でもあった佐伯医師は、産婆学校も設立。
佐伯医師の息子たちも医師になり、学校の運営に携わる。
両校は「佐伯の学校」と呼ばれ、戦後まで続く。

現在、同志社女子大学の看護学部において、京都看護婦学校の志が
引き継がれている。

=====以上で、抜粋終わり。

新渡戸博士は、アメリカ留学時、新島襄と出会っています。
新島先生は、新渡戸に同志社の教員になるよう誘いますが、
ついに実現しませんでした。
けれども、同志社の教育には協力し続けました。

また、佐伯理一郎医師とは、長年親交がありました。
新渡戸博士が亡くなる年に、新渡戸は同志社での講演のため京都に出向き、
また、新渡戸がカナダへ出発する二日前に佐伯は東京に訪ねてきています。
これが、45年間続いた親交の最後になるのです。
新渡戸が、生涯最後となる船旅へ出発した三日後、佐伯は長文の電報を
送っています。

その中にあった聖書の言葉の一節は、
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のような翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない」
(イザヤ書四十章三十一節より)
『新渡戸稲造ものがたり』p.210より

長年の二人の友情、そして、最後の力を振り絞って旅立つ友人に対する
佐伯医師の心情が伝わってくるようです。