2015/04/17

タマシン・アレンさんと岩手

2015年3月30日(月)

今日は、太田愛人様と目黒安子様が、鎌倉のオフィスを
お訪ねくださいました。

太田愛人様は、新渡戸博士についても大変詳しく、これまでも
多くをご執筆されています。
新渡戸博士の一高での教え子、野村胡堂(岩手出身、
『銭形平次』作者、松田 瓊子の父)の研究家でもあります。
太田様は多くのご著書もあり、ご出身の岩手の人脈についてのお話は
いつも興味深く、勉強になります。
また、新渡戸博士の養女コト様らが設立した「愛の家」(東京都豊島区)
理事長でもいらっしゃいます。「愛の家」については、こちら

目黒安子様は、『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』
(2012年 教文館)のご著者です。
アレン先生が設立したアレン短期大学の学長をされました。

ご著書『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』より、
アレンさんと新渡戸博士の親交について、その一部を紹介します。

 ミス・アレンが岩手県を知ったのは新渡戸稲造との夕食の席
 だった。岩手県出身の新渡戸博士が流暢な英語で話す岩手農村の
 惨状は忘れられない印象をミス・アレンに与えた。
(同書 p.34)

 賀川(豊彦)は貧窮した人を救済するには「協同組合」を
 立ち上げなければならないと新渡戸稲造の協力を得る。
 産業組合のすこやかな運営だけが東北農村の貧しさを救い
 農村発展させる。新渡戸はこれに同意し帰国後、
 盛岡産業組合中央会岩手支会長と岩手県産業組合青年連盟総裁に
 就任したが、カナダで急逝する。新渡戸の「支え合う精神」に
 ついて語られることは少ない。一九三三年十一月十八日、
 新渡戸稲造の追悼式が盛岡で行われた。ミス・アレンは
 盛岡公会堂の壇上で葬送の曲をピアノで演奏し、その急逝を
 悼んだ。
 (同書 p.38)

その後、アレンさんはアメリカに帰国し、シカゴ大学大学院で学んだ後、
再び来日され、盛岡、そして、久慈へと移住し、久慈幼稚園を設立。
(ヴォーリス事務所の建築)
太平洋戦争が始まるとアメリカに強制送還されます。
戦争中も日本人収容所で働くなど日本人を支え続けました。
戦後、再来日すると、アレン短期大学など次々に学校の設立に関わりました。
勲五等瑞宝章などを受章されました。1976年、八十五歳で没。

今年(2015年)は、アレン先生の初来日100年にあたります。
目黒安子様は、このご著書を英訳出版されました。

' Build up, Build up, Prepare the Road!
 The life of Miss Thomasine Allen'
 Yasuko Meguro  2015 Kyo Bun Kwan

太田愛人様、目黒安子様のお話は、尽きることがないほどで、
私にとっても学び多き、光栄な日になりました。
ありがとうございました。