2013/03/18

成城学園と新渡戸稲造博士 その2

先日、教文館(銀座)でお目にかかりました太田愛人氏のご著書
『神谷美恵子 若きこころの旅』(河出書房新社 2003年)から、
母校 成城学園と新渡戸博士のご縁について、追記します。

新渡戸稲造博士は、1906(明治三十九)〜1913(大正二)年、
旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長を務めました。
その間、のちに政財界で活躍する多くの優秀な人材を育てました。
「専門センスよりコモンセンス(常識)を」と、
学生たち一人一人との触れ合いを大切にし、学生たちに実に大きな影響を
及ぼしました。

その教え子の中には、田島道治氏(のちの宮内庁長官)、前田多門氏
(ユネスコ日本委員会委員長)たちがいます。
新渡戸博士が、国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中の1923年、
前田多門は、ILO(国際労働機関、国際連盟の外郭組織)の日本代表に就任し、
4人の子どもを連れて、家族でジュネーブに暮らし、新渡戸一家と親しく
交際しました。
長男の前田陽一氏、長女の美恵子氏(のちの神谷美恵子)は、両親が尊敬していた
新渡戸博士を祖父のように慕い、大きな影響を受けます。
(次女には、新渡戸博士の母の名前「せき」から、勢喜子と命名。
 勢喜子氏は、のちに、ソニー創業者の一人、井深大の妻となる)

スイスから帰国後、陽一と美恵子は成城学園で学びました。
前田陽一(桜組、藤組、3文甲)、前田美恵子(1白百合)
「成城学園同窓会 会員名簿」より

陽一氏は、のちに、新渡戸博士とのご縁も深い国際文化会館(東京・六本木)の
専務理事にも就任しています。

美恵子氏は、精神医学を学び、ハンセン病救済活動、戦後は、GHQとの
折衝などで父・多門を補佐、また、著作『生きがいについて』(初版1966年)は
長く読み継がれています。

また、美智子妃(現皇后)の相談役を務め、精神的に支えました。
新渡戸博士の教え子で書生だった、宮内庁長官 田島道治の尽力によるものです。
美智子妃にお会いする日には、長官みずから、東京駅にて美恵子氏を出迎えた
こともあったようです。