2011/09/09

石の教会 内村鑑三記念室

札幌農学校時代の同級生で親友の内村鑑三記念室と「石の教会」が、
軽井沢の星野温泉近くにあることがわかり、見学に行きました。





建築家ケンドリック・ケロッグによるオーガニック建築(建築が自然の一部になること)

残念ながら、教会の中は撮影することができませんでしたが、
水の流れが優しく響く、落ち着いた空間でした。

内村鑑三が提唱した「無教会」

明治・大正期のキリスト教者、内村鑑三によって初めて語られた言葉です。
教会のすべてを無にするという意味ではありません。
教会とは、
制度が「無」くても、たとえ信仰が「無」くても、
祈りたい人が、
自由に集うことができる場所なのではないか・・・

内村鑑三と軽井沢

内村鑑三がはじめてここ星野を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
島村藤村、北原白秋らが集った「芸術自由教育講習会」の講師として招かれた
ためです。それ以降、毎年逗留し、師の別荘には、学友の新渡戸稲造氏や
小野塚喜平次氏らが訪れ、日曜になると聖書会や子供会を催したといいます。

(記念室冊子より抜粋)

教会の地下には、内村鑑三記念室があります。




今回の取材には、高校時代からの仲良しで軽井沢に詳しい中嶋(旧姓・森本)泉さんが
同行してくれました。ありがとうございました!

軽井沢 石の教会 内村鑑三記念室のホームページは、こちらへ。

新渡戸通りと三度山の別荘

旧軽井沢からすぐのところに、新渡戸家の別荘があった、新渡戸通りがあります。
「新渡戸通り」の説明文
明治時代から軽井沢を愛し、昭和初期に三度山に三階洋風別荘を造った新渡戸稲造は、
軽井沢夏期大学創始者の一人である。新渡戸は、国際連盟事務次長として活躍した。
設置者 軽井沢観光協会 美しい村プロジェクト2006
協力  軽井沢トラスト
「軽井沢夏期大学60周年記念誌」に投稿されている加藤武子氏(稲造博士の孫娘)
の記事によると、ここは、「三度山の別荘」と呼ばれていたようです。
近くで門の修理をしていたおじさんに尋ねてみると、このあたりが「三度山」と
呼ばれている地域だよ、と教えてくれました。
別荘の背後に、小高い山が見えます。
当時のものと思われる門構えと石塀が残っています。
番号1450 別荘地
新渡戸通りと別荘の石塀
敷地内の坂を登ったところに、家が建っていたということですから、
おそらくこの坂道でしょう。
右下から左上に向かって、なだらかな坂になっています。
その坂を上がったところに、家が建っていた跡と思われる平らな地面が
ありました。ここに三階建ての洋館が建っていたものと思われます。
その平面の奥が、新渡戸博士が書斎にしていた別邸「月心亭」があった
ところのはずです。
新渡戸博士が希望して引き入れた小さな川があるはず、とお庭を見渡すと、
ありました!
家の南側に広がる広いお庭を、小さな流れが横切っています。

にぎやかな旧軽井沢の近くでありながら、とても静かなところです。
ここで、新渡戸博士は、チャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh、
アメリカ合衆国の飛行家、1927年、大西洋単独無着陸飛行、1931年、太平洋
横断飛行に成功)ら要人も迎えました。

上記の取材から10年後、2021年6月の跡地の様子は、こちら

2011/09/08

軽井沢夏期大学の跡地

後藤新平氏、新渡戸稲造博士らが始めた軽井沢夏期大学の跡は、
現在、日本大学の軽井沢研修センターになっています。
センターの裏手に、軽井沢夏期大学当時のものといわれている門が
残っています。



軽井沢夏期大学は、戦争で一時中断されましたが、その後、再開し、
現在も続いています。

当時、学問は、帝国大学でおこなわれるものとされていましたが、
一般の人々も広く学ぶことが、国の将来のためにも必要であるとの
考え方から、始められました。
その意図が、「通俗」という名称にあらわれていたのです。
開校時の名称は、軽井沢夏期通俗大学。

2011/09/07

晩夏の軽井沢へ

大正7年(1918年)、
新渡戸稲造博士は、後藤新平氏らと共に、軽井沢(通俗)夏期大学を開校しました。
後藤新平氏が総裁、新渡戸博士が会長。
軽井沢という地で、どのような目的と経緯で、この大学が開かれたのでしょうか。

その背景と、軽井沢での新渡戸博士を探しに、軽井沢に向かいました。

まずは、軽井沢町立図書館に行き、資料探しです。
あらかじめ、図書館のホームページで検索してみつけ、興味のあった
「軽井沢夏期大学60周年記念誌」を借りることができました。
また、新渡戸博士の別荘のあった「新渡戸通り」の場所を、図書館の窓口の方が、
大きな地図で探してくださいました。ありがとうございました。

図書館の隣にある軽井沢町歴史民俗資料館では、
「軽井沢夏期大学のことは、中央公民館に行けば、なにか資料があるはず」と
教えていただきました。

早速、軽井沢町中央公民館へ行くと、軽井沢夏期大学事務局の方が、
「軽井沢夏期大学50周年誌」と「50周年記念資料 軽井沢夏期大学のあゆみ」を
どうぞとくださいました。
突然の訪問にもかかわらず、本当にありがとうございました。


2011/09/04

ジュネーブの街

国際都市 ジュネーブ(スイス)

レマン湖畔に広がる美しい街です。フランス語圏。
新渡戸稲造博士が、事務局次長として約7年間勤めた国際連盟の本部がありました。
その後も、国際連合の諸機関など多くの国際機関が所在します。

レマン湖の水上に高く噴き上げられる大噴水(Jet d'Eau)が有名。


旧市街のサン・ピエール大聖堂の塔からの眺め。
Cathédrale Saint Pierre


大聖堂内の美しいステンドガラス。

旧市街には、ジャン・ジャック・ルソーの生家があります。
いまは記念館になっていて、オーディオガイドでルソーの生涯を
辿ることができるようになっています。
Espace Jean-Jacques Rousseau


ルソーといえば、『エミール』



ルソーの家の近くには、古い邸宅、タベルの館があります。
裕福な商家の暮らしぶりが、よくわかります。
通常1階にありそうなキッチンが、2階にあるのが疑問だったので、
監視員に聞いてみましたが、わからないということでした。
Maison Tavel



旧市街には、音楽家 フランツ・リストが、1830年代に暮らした家も残っています。
Franz Liszt

ここで生まれた3人の子どもの一人が、のちにリヒャルト・ワーグナーの妻になる
コジマ(Cosima)。
Wilhelm Richard Wagner


レマン湖のほとりにあるホテル ボー・リバージュ(Beau Rivage)に滞在中だった
シシー(Sissi、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の皇后)は、
1898年9月、船に乗るところを刺殺され、ここジュネーブで生涯を閉じました。




いまは、飛行機で訪れることができるジュネーブですが、新渡戸博士のころは、
どんなに遠い地であったことでしょう。
故国から遠く離れ、世界平和と秩序のために尽くした博士の高い志を感じます。


充実したジュネーブの滞在を終えて、次の目的地に向かいます。
飛行機からは、もう一度、レマン湖、大噴水を見ることができました。
UNでお世話になった方々、ジュネーブの街に感謝を捧げます。

新渡戸博士夫妻が暮らした邸宅

新渡戸稲造博士夫妻は、レマン湖を望む邸宅に住んでいた、
そして、その家には来客が絶えなかった、などの情報から、
今回のUN訪問の際、ぜひその邸宅を訪れてみたいと思っていました。

古文書室の資料の中に、新渡戸博士の引越についての書類があり、
そこから、夫妻の住んでいた屋敷の名前が、レザマンドリエ
であることがわかり、その場所をネットで検索してくれました。

なんと、その屋敷は、いまスイスを代表する時計メーカーの一つ、
Franck Mullerの社屋になっていることがわかりました。
その日から、何回か電話してみますが、返答がありません。

とうとう最終日が近づき、思い切って、バスで行ってみることに
したのです。

UNの前から、バスに乗り、ジュネーブの街とは反対方向に向かいます。



途中、素敵な邸宅が並ぶ、きれいな街並を通ります。
新渡戸夫妻が暮らしていた頃、この家々はすでにあったかも
しれません。この同じ道を、博士は毎日、車で通勤していたので
しょうか、などと車窓からの景色を眺めながら、あれこれ思います。

途中、ジュネーブの空港の滑走路近くも、通りました。
さすがに、新渡戸博士のころは、まだ空港はなかったことでしょう。


Genthodという村でバスを降ります。
Franck Mullerの会社になっている建物、と道で出会った人に尋ねてみました。

「この道をまっすぐ、そんなに遠くはないわよ」


ありました!

もうお屋敷の名前は書いてなかったので、Franck Mullerになっていなかったら、
みつからなかったかもしれません。
三階建て(一番上の階は、屋根裏部屋?)のりっぱな邸宅です。




工事をしている人がいましたが、やはり、会社は夏期休業とのことで
建物の中に入ることはできず、お話を伺うことはできませんでした。

 

Franck Mullerのホームページで、いまは社屋になった建物が掲載されています。

2011/09/03

国連見学ツアー

一般向けのツアーに参加してみました。


一番大きな会議場



ニューヨークの国連本部のように、世界各国からの贈りものが
展示されています。

日本からの贈りものの壷


天井がおもしろいアート作品になっている会議場






国連カフェテリア

古文書室は、お昼休みになると閉室。全員、室外に出なければなりません。
鍵を締めるので、パソコンや閲覧している資料など、そのままにしてカフェテリアに
行きます。


入り口に今日のメニューが出ています



ピザを注文すると、その場で作ってオーブンで焼いてくれます。

サラダバーが充実していて、人気です。



自分で好きなものを盛りつけて、レジに持っていくと重さを量って、値段が決まります。
テイクアウト用のケースも用意されていて、自分の部屋などに持ち帰って食べる人も
いるようです。


もちろん(?)お寿司もあります。


外で食べることもできます。広い芝生の向こうには、レマン湖が見えます。



新渡戸博士関連の書類

昔の図書館の利用方法と同じように、
まず、インデックスで、nitobeのカードを探します。
nitobe, I.と書かれたたくさんのカードがあります。
これは、途方もなく多い資料がありそうです。

そのカードから、今度は、古文書室に設置してある分厚い本で、
書類収納箱の番号を探します。
その際、その文書がどんな関係のものかわかるように、
アルファベットや数字で類別されています。

その番号を、所定の紙に記入し、係の人に渡すと、
その箱をワゴンに載せて運んできてくれます。
一度に請求できる書類収納箱は、5つまでです。


書類箱のタイトル

1919年〜1926年の書類ですから、タイプライターで入力された文書に
新渡戸博士の直筆のサインなども多く見られます。

インデックスのカード、各案件別に綴られたの書類の表紙など、
手書きのものも少なくありません。



copyright
UNOG Library, League of Nations Archives