2019/08/22

田島道治(初代宮内庁長官)と新渡戸稲造博士

2019年8月21日(水)

今回、「拝謁記」が公表された田島道治 初代宮内庁長官は、
学生時代、新渡戸稲造博士の書生でした。

伝記『田島道治』をお書きになった恩師加藤恭子先生によると、
新渡戸夫妻は、田島氏に終生大変な信頼をおいていらしたそうです。
新渡戸博士がカナダで亡くなり、遺骨を抱いて帰国したメアリー夫人が、
真っ先に遺骨を手渡したのが、田島氏だったということです。

新渡戸博士のお墓がある多摩墓地の新渡戸像も、田島氏が中心になって
建てられました。詳細は、こちら

加藤恭子先生は、上記の伝記以外に、これまで、

『昭和天皇 「謝罪詔勅草稿」の発見』
昭和天皇と田島道治と吉田茂 初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』
『昭和天皇と美智子妃 その危機に 「田島道治日記」を読む』

などをご執筆されています。

2019/08/19

第2回新渡戸稲造シンポジウム

2019年8月18日(日)14:00~ 中野サンプラザ(東京都・中野区)

第2回新渡戸稲造シンポジウム
〜「新渡戸稲造記念センター」開設記念〜

2019年4月、東京医療生活協同組合に「新渡戸稲造記念センター」が
開設になりました。
新渡戸博士は、1932年に設立された医療生活協同組合病院
(現 新渡戸記念中野総合病院)の初代理事長です。

新渡戸記念中野総合病院についての過去のブログは、こちらへ





最初に、入江徹也理事長様よりごあいさつがありました。
病院の理念は、
「新渡戸稲造博士の精神(誠意と思いやりの心)を基にした医療を
誠実に実践し、疾病を抱えた人を真心で支援する」です。





講演 I  新渡戸稲造が遺したもの 
茂里 一紘 先生(東京女子大学 学長)

1 いと小さきもの

東京女子大学は、新渡戸博士を初代学長に迎え、1918年に開校。
1918年4月30日におこなわれた開校式について、翌日の萬朝報に
よりますと、渋沢栄一はじめ来賓500名(およそ半数は外国人)、
新入生は84名。その中には、斉藤百合さんがいました。
斉藤百合さんは、盲目の28歳、既婚で一児の母でした。
断られてもともとと思って志願すると、なんと特別生として入学が
許可されました。
茂里先生は、新渡戸学長とライシャワー氏(常務理事・財政担当)が
相談し、この異例な許可にいたったのでは、とおっしゃいました。

「いと小さきもの」を、神の子として平等に受け入れ、
知識よりも見識、学問より人格を尊び、人材より人物の養成を
主とした教育をおこないました。

注:ライシャワー家の長女は、聾唖(ろうあ)者で、日本聾話(ろうわ)学校を
夫人とともに設立。次男は、のちの駐日大使 E.O. ライシャワー。
『新渡戸稲造ものがたり』p.154


2 犠牲と奉仕 (Service and Sacrifice)

己を犠牲にしても、国、社会、人道のために貢献する精神。
この二つの頭文字(SS)をデザインした校章


3 リベラル エデュケーション(高等なる常識)

「リベラル・エデュケーションは、無知からの解放」
D. キーン

東京女子大学では、開校時から「文明史」の授業
「人文科」=一女性として高等なる常識を学ぶ
カリキュラムは、リベラル・アーツ教育の源流

卒業生たちが語る東京女子大学(『旅人われら』2007年)の
キーワードは、
「自由」=枠にはまらない考え方=リベラル・アーツ教育

「学び」は、建物の「耐震化」のようなもの
=予期せぬことに対応できるような強靭さを育むこと
特に女性は人生の変化が大きい人がいる

「挑戦する知性 未来につなぐリベラル・アーツ」


講演 II 新渡戸稲造先生の贈り物
宗雪 雅幸 先生(恵泉女学園 理事長)

恵泉女学園の創立者 河井 道先生と新渡戸稲造博士は、
「神の見えざる手」(アダム・スミス)によって導かれた出会い

河井 道先生(1877年〜1953年)は、伊勢神宮の神職の家の出身。
(「祈り」のある家)
明治4年、神職の世襲が禁じられると、河井家は函館へ。
ある日、お使いに出たところ、伊勢山田出身の親戚(キリスト教の
伝道者)に会う。スミス女学校で、新渡戸稲造先生から歴史を学ぶ。
新渡戸博士のアドバイスに従い、米国の名門ブリンマー大学に留学
(津田梅子も同学に留学)

新渡戸夫妻に同行して渡米した際の「渡航証票」が恵泉女学園史料室に
残っている。
雇い主 ↓
新渡戸稲造 東京市四ツ谷區北伊賀町廿五(25)番地
河野 孝忠 方

河井 道 先生は、「恵泉」11号(1933年10月)「恩師新渡戸稲造博士」で、
新渡戸先生口添えで1000円(当時)の寄付をいただいたエピソードを
書いています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.187)

1929年、世界恐慌などの状況にもかかわらず、恵泉女学園を創立。
当初、新渡戸夫妻は、河井の苦労を心配して反対したが、
生涯に一度だけ、新渡戸博士の意見に反して行動しました。
1929年1月、申請。3月、許可。7名の後援者、9名の入学者。

新渡戸先生=優しさ、知性、行動
新渡戸博士のユーモア=心のあたたかさ


講演 III 21世紀の新渡戸稲造 〜がん哲学外来の心得〜
樋野 興夫 先生(東京医療生活協同組合 新渡戸稲造記念センター長)

日頃の講演活動のご報告とご著書の紹介



新渡戸稲造記念センター開設、誠におめでとうございます。
お招きくださいました入江理事長様に感謝を申し上げます。

新渡戸記念中野総合病院のホームページは、こちら