2016/06/13

新渡戸博士の農業思想

2016年6月 読書メモ


『現在に生きる日本の農業思想 安藤昌益から新渡戸稲造まで』
2016年1月30日 ミネルヴァ書房


第一章 グローバル化のなかの農業思想
    内村鑑三と新渡戸稲造     並松 信久

第二章 二宮尊徳思想の現代的意義
    幕末期の農村復興に学ぶ    並松 信久

(第三章 中国における尊徳研究の動向と可能性)
    
第四章 安藤昌益の人と思想
    直耕・互性・自然       三浦 忠司

「新渡戸君の結婚問題」

2016年6月12日(日)

『財界回顧』池田成彬 述 世界の日本社 昭和二十四年七月二十五日

第二章 慶応大学とハーヴァード大学
p.35〜36より

・・・ハーヴァードの教育の革新だというのは、
グリーク(ギリシャ語)、ラテンというものは御承知のように
西洋では、大變(大変)なもので、それをやらなければ学生として
問題にならんといわれておったのを、私に対し特に免除したというので、
新聞はエリオット総長の英断をほめて書き立てたものでした。
序でに(ついでに)セイヒン・イケダという日本の学生の名が方々の
新聞に出たもんだから、私の所へ知らない人から手紙が来て、
えらくセンセーショナルなものになりました。
その時に新渡戸稲造君がフィラデルフィヤでそこの馬車鐵道會社社長の
娘さんを奥さんに貰いました。その當時日本人というと軽蔑されておった
時ですから、これもビッグ・ニュース。私の學校のことが載った直後に
又新渡戸君の結婚問題がフロント・ページにでかでかと出たものです。

以上、同書から引用。( )は筆者加筆。


2016/06/07

ムーミンの著者トーヴェ・ヤンソンが描いたフィンランド

2016年6月5日(日)

日本では、あまりにも有名なキャラクター「ムーミン」。
その作者トーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)氏(1914〜2008)は、
スウェーデン系フィンランド人として、ヘルシンキに生まれた。
もともと画家として活躍し、当時に政治風刺雑誌「ガルム」にも
多くの絵を描いています。

20世紀前半のフィンランドが置かれた状況は、歴史、文化、地理などの
影響により複雑なものでした。
そんな中、1921年に国際連盟にその解決を委ねたのが、オーランド諸島の
帰属問題でした。当時、事務次長で国際部長だった新渡戸博士は、
その裁定をおこないました。
国際連盟がおこなった紛争解決の中で、成功事例として、
いまにも伝えられている「新渡戸裁定」です。

『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界 ムーミン・トロールの誕生』 
(冨原眞弓 著 青土社 2009年5月)から、以下を引用します。

p.68〜「オーランド解放区」

 フィンランドには一種の解放区がある。オーランド諸島である。
バルト海の多島海域に浮かぶ約6500の島嶼(とうしょ=大きな島や小さな島)
の総称で、スウェーデンの首都ストックホルムとフィンランドのトゥルク
(スウェーデン時代の首都オーボ)の中間に位置する。
1809年にフィンランド本土とともにロシアに割譲されるまでは、
歴史的にも文化的にもスウェーデン王国の一部であった。
住民のほとんどがスウェーデン語を話し、フィンランドではなく
スウェーデンへの帰属意識のほうが強い。ロシア領となってからも、
自分たちはスウェーデン人だと思っていた。本土のフィンランド人とはことなり、
フィンランド人かロシア人かというジレンマは存在しなかった。

 フィンランドがソヴィエト=ロシアから独立したのちも、オーランドの
帰属をめぐって、フィンランドとスウェーデンは争った。この紛争の決着に
道筋をつけたのは、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造である。
1921年、ジュネーブ本会議で「新渡戸裁定」が承認された。
オーランドはスウェーデン語の使用、スウェーデン文化や習慣の維持、
内政自治を手に入れた。

 フィンランドは、オーランドを領有する権利とひきかえに、
オーランドに内政自治を保障する義務を課せられた。スウェーデンは
得るものがなかった。オーランドの非武装・中立化のほかには。
フィンランドとスウェーデン双方の痛み分けで、オーランドの希望が
ほぼ認められた。現在も、オーランドがフィンランドとスウェーデンを
つなぐ重要な中継地だ。今日、フィンランドからスウェーデンへの移住を
希望するものは、かならずといっていいほどオーランドに五年とどまる。
この通過儀礼をおこなうだけで、オーランド人にあたえられている特権、
すなわちスウェーデンへの自由な移住という特権が手に入るのである。

(以上、引用おわり)

 とはいえ、この帰属問題は、フィンランド本土に住むフィンランド系と
スウェーデン系に大きな影響を及ぼしたようです。
 同書の第七章「ひとつの国、ふたつの言語」では、当時の雑誌などに
掲載された記事から、双方の心情を読み取っています。

(以下、同書p.99〜「オーランド、どこへいく」から抜粋)

 フィンランド本土が独立と内戦の混乱のただなかにあったとき、
オーランド諸島の住民たちは、いまこそスウェーデンへの帰属を
嘆願すべきと考えた。スウェーデン王も政府もこの表明を歓迎する。
ロシアに奪われた領土の一部を取り戻すチャンスでもあった。
 1917年12月5日、フィンランド独立宣言の前日というタイミングに、
オーランドの嘆願書が提出された。フィンランドが国としての命運を
かけて戦っている時期であったので、大半のフィンランド系は憤慨し、
当惑したスウェーデン系も少なくなかった。本土におけるスウェーデン系の
立場を悪くすると心配するものも多かった。

 当時、オーランドの人口は、27,000人程度。そのうち成人の7,097人が
復帰嘆願に署名した。

 オーランドの「分離主義」あるいは、「母国復帰願望」は、
フィンランドを二分する階級とイデオロギーと言語の亀裂をあらためて
浮き上がらせた。
 オーランド帰属問題で、割をくったのは、本土のスウェーデン系だった。
内心は同じ穴のムジナだろうと、フィンランド系の不信を買ってしまった。
純正なフィンランド系をとなえる学生たちは、公教育でのフィンランド語化を
訴えた。一般に、フィンランド系の学生は、両親もスウェーデン語を話さず、
学校の授業も友人もフィンランド語(スウェーデン語は一教科にすぎない)。
ところが、高等教育では、講義のほとんどがスウェーデン語になり、
フィンランド語が母国語であることがハンディになる。
 政府も、どちらの言語でも選んで学ぶことができる制度を導入する案などを
出したが、なかなかうまくいかなかった。
 それから数十年後、我が子の将来を考えて、多数派のフィンランド語教育を
選ぶスウェーデン系の親を「親心と打算がスウェーデン語を滅ぼす」と
雑誌「ガルム」は警鐘を鳴らした。

(以上、同書より抜粋)


 隣国との国境問題は、いまでも世界各地で起こっています。その背景には
長年の両国の関係や、地理的要素、文化、言語にいたるまで、複雑な状況が
からんでいることを、今回は、雑誌から垣間みることができました。

(フィンランドが独立して数年後の1923年、雑誌「ガルム」は産声をあげた。
トーヴェ・ヤンソンは、四半世紀の間、「ガルム」ほか多くの新聞雑誌に
千枚以上の絵を描き、1940年代後半には、その絵の八割以上にムーミントロール
が姿を表わしているそうだ。風刺画の隅っこにちょこっと、その愛らしい姿が
見える。)

鎌倉 第81回 円覚寺夏期講座 円覚寺 大方丈にて 
6月5日「ムーミンを哲学する」 冨原 眞弓 聖心女子大学 哲学科教授





日本両親再教育協会

「日本両親再教育協会」は、
1928(昭和3)年、新渡戸博士の東京帝国大学教授時代の教え子の一人、


上村哲彌(かみむらてつや)氏が中心になって創立された民間組織。
後藤新平伯と新渡戸稲造博士は、顧問に就任しています。
会長は、松本亦太郎(まつもとまたたろう)。


同会によって出版された「子供研究講座」第十巻(昭和4年7月11日発行)に、
新渡戸博士は、「親の道」を寄稿しています。

冒頭、新渡戸博士は、東西の二聖人、釈尊とキリストの話を引用しています。
そして、「親子の関係が真にその素質通りにまっすぐにのび、まさにあるべき
境地まで到るには、まず親子の関係の土台である夫婦の関係がその真面目を
発揮せなばならぬ」と書いています。

成瀬仁蔵著『新婦人訓』からテニソンの詩の訳を紹介。
「子のために、親はまず生きがいある生活を営め」としています。

「・・・親子の間に常に感応があり、親の生命が子を育て、
子の成長が親をさらに発展せしむるという親子本来の関係を
どこまでも続けることは、
親の幸福であり、子の健全なる発達の基である。
 それがために親はなにをますべきかといえば、
子の信頼と敬愛を続け得るため、その人格を常に向上させ、
子の進歩と共にますます彼の光たり得るよう生活することである。」
(同書 p.14より)



2016/06/01

講座「新渡戸稲造ものがたり」(鎌倉市)

2016年5月 鎌倉市生涯学習推進委員会

鎌倉市の大船学習センターにて、下記のような連続講座をさせていただきました。
大変学び多い4日間になりました。
関係者の皆様、聴講くださいました皆様、本当にありがとうございました。



 〈 新渡戸 稲造 〉 全四回 大船学習センター

「新渡戸稲造ものがたり
 〜真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける〜」

 ① 5月10日(火曜日)  ② 5月17日(火曜日) 
 ③ 5月24日(火曜日)  ④ 5月31日(火曜日)
 各10時〜12時


第一回 2016年5月10日(火曜日)

はじめに
 ・自己紹介
 ・伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

1 わんぱくな幼少時代
 
 ・武士の家に生まれた少年、稲之助
 ・祖父と父の開拓者精神(フロンティア・スピリット)
 ・近所でも有名なわんぱく坊や
 ・父がなくなる
 ・武士の時代の終わり 戊辰戦争
 ・西洋、英語との出会い

2 親元を離れて東京へ

 ・明治時代の東京
 ・本格的な英語の勉強と講談による人生勉強
 ・人生を決めたできごと

3 「ボーイズ ビー アンビシャス!」クラーク博士 
   札幌農学校(現在の北海道大学)

 ・クラーク精神「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」
 ・キリスト教の洗礼を受ける
 ・悲しみの帰郷
 ・生涯の友人、愛読書に出会う

4 「太平洋の橋になりたい」東京大学

 ・「われ、太平洋の橋とならん」


第二回 2016年5月17日(火曜日)


5 アメリカ、ドイツ留学と結婚

 ・アメリカ留学と学友ウィルソン
 ・クエーカーになる/モリス家に集った日本人留学生たち
 ・メアリーとの出会いと結婚
 
6 母校 札幌農学校教授と遠友夜学校

 ・遠益(トーマス)の誕生
 ・新渡戸夫妻の夢「遠友夜学校」

7 世界的な名著『武士道』

8 台湾の発展に尽くして

 ・後藤新平との出会い

9 旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長

 ・ソシアリティー(社会性)の大切さ
 ・専門センス(専門的知識)よりコモンセンス(常識)
 ・日米交換教授


第三回 2016年5月24日(火曜日)

10 東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長

 ・東京帝国大学 植民地政策講座
 ・日本人道会 動物愛護運動
 ・銀婚式 新しい決心
 ・拓殖大学 学監就任と後藤新平学長とのコンビ復活
 ・東京女子大学の建学 初代学長に就任
 ・農人形
 ・軽井沢夏期大学

11 国際連盟事務次長

 ・かつての学友 ウィルソン大統領が提唱した世界で初めての国際平和機構
 ・国際連盟の輝ける星
 ・国際領土問題を解決「新渡戸裁定」
 ・国際知的協力委員会(ユネスコの土台作り)
 ・ジュネーブの「日本の家」

12 晩年の生き方
 ・平和の使徒として 
 ・太平洋問題調査会(IPR)と最後の旅


第四回 2016年5月31日(火曜日)

13 没後 新渡戸博士が遺したもの

 ・メアリーの晩年
 ・「遠友夜学校」の閉校と現在
 ・教え子たち「稲造の精神的子孫」
 ・『武士道』のその後
 ・カナダの新渡戸記念公園
 ・皇室とクエーカー
 ・諸宗教の根底にあるもの

14 鎌倉と新渡戸稲造博士

 ・別荘跡(稲村ケ崎)とその周辺
 ・母の五十回忌法要
 
15 一人の人物の生涯から学ぶ

 ・ノンフィクション
 ・「伝記」=もう一つの人生
 ・伝記の効用と歴史の学び
 ・「出会い」