2011/11/19

東京女子大学(Tokyo Women's Christian University)

女子教育の重要性を指摘していた新渡戸稲造先生は、1918年、東京女子大学の創立に
関わり、初代学長に就任しました。
1920年、国際連盟事務次長に就任した後、1923年、共に建学に尽くした安井てつ先生が
学長を引き継ぎました。新渡戸先生は、遠くジュネーブから生徒たち一人一人にお便りを
出し、また、帰国の折には、学校を訪れて講演をおこなうなど、学生たちに大きな影響を
与えました。


正門を入ると正面に本館があります。



本館二階に、新渡戸記念室があります。


新渡戸稲造先生が、ジュネーブ時代に愛用した革椅子、農人形などの展示があります。
(公開日:毎週水曜日)


緑豊かな武蔵野の地にある、美しいキャンパスです

学生寮が、いまもキャンパスにあります。

2011年11月16日〜17日、東京女子大学図書館にて、新渡戸稲造先生に関する本を閲覧
させていただきました。ありがとうございました。

2011/11/15

遠友夜学校跡地

最終日、新渡戸稲造・萬里子ご夫妻が豊平橋近くに創立した、札幌遠友夜学校の跡地を
訪れました。


数ヶ月前まで、遠友夜学校記念室もここにありましたが、建物の解体作業中でした。
この掲示も間もなく取り外されることでしょう。



敷地内、道路に近いところに、遠友夜学校を記念する像が立っています。


新渡戸博士ご夫妻
稲造博士は、第一代校長、萬里子夫人が第二代校長を務めました。


「学問より実行」

当初の遠友夜学校の建物の写真(札幌市資料館内、遠友夜学校記念室の展示写真)



ここは、当時、教師を務めた学生たちが通っていた札幌農学校の場所からは
離れた場所にあります。
夜学校で教えるために、夜道を往復した学生たちの思いに頭が下がります。

札幌教育委員会で聞いたところでは、この像は、この地に残される予定だということです。
この土地が今後どのように使われるかは今のところ未定のようです(2011年11月現在)。

最後に札幌駅のJRタワーに上りました。地上160メートルから、360度の視界が広がります。


北海道大学を望む


大都市になった札幌の街を、新渡戸稲造博士がご覧になったら、どんな感想をお持ちに
なるでしょう。

今回の札幌訪問でも多くの収穫がありました。
お世話になりました方々に御礼申し上げます。

北海道大学文書館

地下鉄南北線、中島公園駅から、地下鉄に乗って北海道大学へ。

今回の訪問先、北海道大学文書館(図書館4階)へ行く前に、晩秋のキャンパスを
散策しました。北国の紅葉は、目が覚めるような美しさです。





晩秋のポプラ並木。


そして、ポプラ並木のすぐ横の稲造博士像




北海道大学文書館には、さまざまなオリジナル文書が保管されています。


新渡戸稲造博士がアメリカで出版した 'Bushido'(『武士道』)のタイトルが
赤字で印刷されている出版社の封筒で、新渡戸博士が宮部博士に宛てた手紙、
新渡戸夫人メアリーさんの直筆などもあります。


『書簡集からみた宮部金吾』(北海道大学出版会)にリストアップしてある書簡の実物も
見せていただきました。

そのほか、多くの文書、写真が整理され保管されています。
資料を用意しておいていただき、ありがとうございました。

北海道大学博物館も再訪し、札幌農学校の歴史、新渡戸稲造先生関連の展示を見ました。

札幌 豊平館(ほうへいかん)

2011年11月11日(金曜日)快晴

青空広がる中島公園内にある豊平館を訪問しました。



豊平館は、明治13年に建てられた木造洋風建築物です。
札幌を視察された明治天皇をはじめ、大正、昭和の天皇陛下も皇太子時代に
お泊まりになりました。現在、重要文化財。



豊平館は、かつて今の大通公園の東端にありました。
新渡戸稲造博士は、第一高等学校校長在任中、世間からの批判を受けて神経衰弱になり、
札幌で休養中、豊平館に滞在したといわれています。


当時の趣きを残す、内装。


二階では、明治天皇がお泊まりになった部屋を見学できます。
現在、豊平館は、結婚式、披露宴の会場として使われています。

豊平館ホームページは、こちら


中島公園は、木々が色づき、美しい朝でした。



同じく中島公園内には、北海道立文学館もあります。
一階の常設展「北海道の文学」には、北海道ゆかりの文筆家として、
新渡戸稲造博士の展示があるほか、アイヌ文学の展示などもあります。


常設展では、「佐藤忠良と北海道の本」を展覧中。
佐藤忠良は、北海道に生き、今年3月、98歳で亡くなった彫刻家。
本の挿絵も描かれていたとは知りませんでした。

「帽子・夏 1972」
今秋、新制作展(東京・新国立美術館)で展示された作品(会場にて筆者撮影)

北海道立文学館のホームページは、こちら

札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)

街の中央に位置する有名な時計台を再訪しました。
多くの観光客が、時計台を背に記念撮影をしています。


一階は、農学校時代、研究室や講義室として使われました。
いまは、農学校についての展示室になっています。


札幌農学校の初期卒業生の中に、新渡戸稲造博士もいます。


稲造博士の農学校時代の農学ノート(複製)の展示もあります。
美しい英語の筆記体、図など、熱心に勉学に励んだことが偲ばれます。


そして、二階は、体育館、講堂として使われました。





札幌市時計台ホームページは、こちら

札幌 遠友夜学校記念室

秋が深まる晴天の札幌を再訪しました。

2011年11月10日(木曜日)早朝の羽田空港発で新千歳空港へ。
10時に北大植物園にてアポイントメント。
早速、宮部金吾博士(新渡戸稲造と札幌農学校で同期生)記念室へ。
前回の見学で、大変印象的だった宮部先生の農学校時代の英語の筆記ノート、
親友新渡戸稲造博士の死を報じた新聞の切り抜きを貼ったスクラップノート
などを撮影させていただきました。


その後、徒歩で大通公園端にある札幌資料館へ。
移転中で前回訪問できなかった遠友夜学校記念室が、今秋、札幌市資料館内に開室しました。


ここへの訪問を導いてくださったのは、十和田市新渡戸記念館の新渡戸館長さんです。




資料室の中。



ここの資料室は、以前、遠友夜学校の跡地にありましたが、建物取り壊しが決まり、
こちらに移転してきました。
記念室の展示は、以前の展示を忠実に再現しているそうです。


その後、この記念室を運営管理している札幌教育委員会生涯学習部へ。
いろいろお話を伺うことができました。ありがとうございました。

資料館前の大通公園では、降雪に備え、ベンチの撤去作業がおこなわれていました。


札幌市資料館(旧控訴院)ホームページは、こちら
遠友夜学校記念室のページは、こちら

2011/11/05

ニトベ・ハウス 小日向の家

秋晴れの日、新渡戸稲造博士夫妻が住んでいた東京・小日向の家の跡を訪ねました。


小高い丘の上に、閑静な住宅街が広がっています。
南に少し傾斜している一角に新渡戸稲造博士夫妻の旧居跡がひっそりと
残っていました。この石垣と階段は、当時からのものでしょうか。
(この奥の敷地内には、団地か社宅だったような建物が残されています。
閉鎖されていて、中には入れません)



旧居跡にある文京区教育委員会の説明、その内容を全文掲載します。↓

新渡戸稲造旧居跡 小日向2-10-30あたり

新渡戸稲造(1862年〜1933年)は、農学者、教育家、国際人。
南部藩士の子として盛岡で生まれ、幼くして上京した。
明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。
さらに東京帝国大学に学び、またアメリカやドイツに留学して農政経済学や
農学統計学などを学んだ。
明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国。札幌農学校で教えた。
後、京都帝国大学教授を経て、明治39年第一高等学校長となり、学生に深い影響を
与えた。その後、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長となった。
また、地元拓殖大学の学藍(学長)も務めた。
「太平洋の橋」になることを若い時から考え、国際的にも活躍し、わが国の思想や文化を
西洋に、また西洋のそれをわが国に紹介すること努めた。
大正9年に国際連盟事務次長となり、”連盟の良心”といわれた。
昭和2年帰国して、太平洋問題調査会理事長となり、きびしい国際情勢のなか
平和を求めて国際会議に出席してカナダで亡くなった。
ここは、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと
呼ばれた旧居跡である。

文京区教育委員会 昭和59年3月


旧居跡の前は、なだらかに傾斜している坂道です。
カナダで亡くなり、夫人に遺骨を抱かれて帰宅した時、この坂道では、
多くの近所の人たちが、博士を出迎えたそうです。




これは、現在の地図です。↓
左下が、ニトベ・ハウスがあったあたり、右上には、学藍を務めた拓殖大学が
あります。